徳川宗春の生き方が影響?花魁・高尾太夫と姫路城主・榊原政岑と姫路ゆかたまつり

姫路城
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同じ時代を生きた姫路藩主・榊原政岑と御三家のひとつ尾張藩主・徳川宗春。

ふたりとも、倹約令を出し、緊縮政策をとる8代将軍・吉宗に対抗するかのように生きました。
宗春は政岑の生き方に影響したのでしょうか?

花魁・高尾太夫と政岑が関係する姫路ゆかたまつりの由来は?

姫路ゆかたまつり

毎年6月22日、23日、24日の夏至のころ、兵庫県姫路市では、
姫路ゆかたまつりが開催され、たくさんの人でにぎわいます。

東京オリンピック開催のため、例年より早く予定されていた令和2年6月13日・14日の姫路ゆかたまつりは、新型コロナウィルス感染症拡大の状況を踏まえ、開催が中止になりました。残念です。

 

姫路ゆかたまつりは、姫路市の中心部(姫路市立町)にある長壁神社の毎年決まった日に行われる例祭です。
祀られているのは第49代光仁天皇の皇子・刑部(おさかべ)親王とその娘、富姫といわれています。が、いろいろといくつか説があって、どれが正しいのかよくわかっていません。

姫路城は姫山という小高い山の上に建っています。
お城が造られる以前からこの姫山の守り神として祀られていたのが長壁神社です。

長壁神社は、安土桃山時代に黒田官兵衛の黒田氏や羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城を築き、そして池田輝政が現在の姫路城を建ててからは、
姫路城の中にあったため武士しか参拝できない神社になっていました。

江戸時代中期で8代将軍・徳川吉宗の時代です。

分家の榊原政岑が降ってわいたように榊原家宗家の8代当主となります。

政岑は、日光代参(にっこうだいさん)の希望を幕府に出しますが、聞き入れませんでした。

日光代参とは将軍の代わりに家康の霊廟がある日光へ参拝することです。

将軍に代わって参拝するということで、この代参は誰にでもそれが務まるというものではなく、それができるのは由緒ある名家の証しでもあったのです。

代参は、大勢の家臣・家来をひきつれた大名行列での参詣です。代参は、重い負担を負うことを覚悟してでの重大な決意がいったのです。
しかし、それにもかかわらず聞き入れられなかったことに、重い負担も覚悟の上で申し出た政岑は落胆します。
将軍・吉宗や、幕府に不満をもった一因だったとされています。

1716年(享保元年)、将軍職に就いた吉宗がするべきことは、インフレの元禄時代をへて財政が破たんしている幕府の立て直しでした。
そのため吉宗は、幕府の財政を再建するために倹約令を出し、緊縮財政を打ち出します。

自らも倹約生活をし、町民の意見を聞く機会を設けるための目安箱を設置します。
また新田開発を推進し生産力をあげ、
各大名からも米を徴収するように決めて幕府の財政を安定させていきました。

これが「享保の改革」です。

姫路ゆかたまつりと政岑

この時代に、吉宗が出した倹約令を無視し、政岑は酒色におぼれて、遊郭に通うなど贅を尽くします。
1741年、吉原の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けします。
そして、高尾太夫を姫路に連れ帰って、姫路城内の西屋敷に住まわせました。

これらの政岑の行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れます。
そして、将軍・吉宗の怒りを買い、糾弾されるのです。

政岑は27歳の若さで隠居を命じられ家督は息子に。
そして、榊原家は越後高田(現在の新潟県上越市)へ転封となり、高尾太夫も政岑に従って共に越後高田へと下ることになりました。

国替えの前に政岑は庶民が気軽に参拝できるように長壁神社を城下の長源寺の境内に社を移し、
御神璽(しんじ)を遷(うつ)す「遷座祭(せんざまつり)」を1742年(寛保2年)夏至の日の6月22日に開催しました。

「お城のしきたりに合う正式な着物(裃)もないし、馬もないので梅雨明けの神事で、祭りには欠かせない走り馬もできません。」
と奉行から領民が困っているとの報告を受けます。

「それなら、正式な着物がなくてもゆかたでいいではないか。走り馬は他の方法を考えればよい。」
と政岑は指示します。

正式な着物の代わりに「ゆかた」、走り馬の代わりに「回り灯籠」を使って行われることになりました。

以後、この例祭を「姫路ゆかたまつり」と呼び、毎年、夏至の6月22日から24日に行われ、人々に親しまれ、姫路を代表するお祭りの一つになりました。

尾張藩7代藩主徳川宗春は名君

18歳の榊原政岑が姫路藩主になる2年前です。

徳川宗春は、1730年11月27日に兄・尾張藩6代藩主徳川継友が没し、翌日継友の遺言ということで尾張徳川宗家を相続し、第7代当主徳川通春となります。

翌年、将軍吉宗より「宗」の字を授かり、「徳川宗春」を名乗ることに。

しかし、宗春は、当時の将軍・吉宗に対抗するかのように、倹約とは正反対の政治を行いました。

質素倹約を重視して緊縮財政をすすめ、幕藩体制の立て直しを図ろうとした吉宗に対し、宗春は祭りや芸能を奨励し、そして消費を拡大することで、経済の活性化を図ったのです。

宗春が、初めて名古屋に入るときには、宗春一行は、華麗な衣装で、宗春自身も中央が高くとがった唐人笠と黒尽くめの衣装と真っ黒の馬に乗っていました。

名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭・1ヶ月半にも及ぶ盆踊りなどの祭りを奨励し、
また、女性や子どもが夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置きました。

前藩主・継友時代に廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直し、そのお披露目の際に城下の女性と子どもを呼んで踊りの大会を丸2日間行わせます。

この当時、幕府だけしか公認できない遊郭や芝居小屋を名古屋の街で公認します。
江戸で営業する場所を失った芝居や遊郭や特別な飲食店などを積極的に名古屋に招きました。
江戸のこういう業者たちは、
「江戸がダメなら名古屋があるさ」
といって、どんどん名古屋へやってきました。

宗春の行動もユニークでした。
例えば、白い牛に乗り奇抜な頭巾をかぶって神社や寺院に参拝したり、全身真っ赤な衣装に長さ二間(約3.6m)ものキセルをくゆらせ、徳川家の菩提寺建中寺に参拝するなど、領民はびっくり度肝を抜くものでした。

宗春は、領民ができるだけ楽しくのびのびと生活できるような政治を目指したのです。

宗春は、
「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」
「規制を増やしても違反者を増やすのみ」
「いき過ぎた自粛は経済を失速させる。
経済を成長させるためには、上の者が率先して下の者に華やかなことをさせなければダメだ。
それには、大いに公費を使うことだ」
などの主張を掲げます。
質素倹約の吉宗が推進する享保の改革に反して名古屋城下に開放政策を採ったのです。

そして、倹約令で火が消えたようになっていた名古屋は、繁栄して
「名古屋の繁華に京(興)がさめた」
と言われるほどになりました。

政岑と宗春 吉原通い

1732年、18歳で姫路城主(藩主)になった政岑が、吉原では、宗春と親しくしていた。・・・という話があります。

同じように、20番目の男子だった宗春も、分家の次男坊だった政岑もふたりとも似たような経過で、藩主の座が転がり込んできました。

政岑より17歳年上だった宗春が実行した倹約令に反する庶民派の政策の話を、政岑は興味深く、目をランランと輝かせて聞き入ったことでしょう。

日光代参が聞き入れられなかったことなどで幕府への不満もあったので、幕府の政策に反する政策は、より一層の説得力が有ったはずです。

吉原での遊びの先輩でもある宗春に、若き政岑はよく吉原に連れられていきました。

その宗春と親しくしていた・・・という事は、政岑のお遊びも計算ずくなのでしょうか?

ただ、政岑の場合は、宗春のようなはっきりとした倹約令への反対意見を示した証拠はなく、吉原で親しくしていたというのも、単なる噂どまりです。
しかし、似たような大名の同時期の吉原通いです。充分ありうる状況ではないでしょうか?

1739年、宗春、隠居謹慎。1741年、政岑、名妓・高尾太夫を身請け

宗春は、1739年、行きすぎた自由化と藩財政の悪化と相まって、朝廷と関係という問題もからまり幕府の謀略にはまり蟄居させられます。

名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎。
その後、20年以上も城から出ることも許されませんでした。
幽閉されたのです。

尾張藩は、宗春の従弟の松平義淳(まつだいら よしあつ)=徳川 宗勝(とくがわ むねかつ)が継承します。

政岑は、宗春に蟄居謹慎の命がくだったことは当然に耳にしたと思います。
が、宗春の隠居謹慎から2年後の1741年、名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けするなど贅を尽くします。

身請けの際には3000両をつかって吉原の遊女を総上げし、その後祝宴を張ったと言われています。
その高尾太夫を姫路に連れ帰って、城内西屋敷に住まわせました。

宗春の処分を知っていたはずの政岑にとっては、将軍・吉宗から何らかのお達しがあることは十分に承知したうえでの、高尾太夫の身請けだったのではないでしょうか?

政岑は正室が早死にしていたこともあって、高尾太夫に恋をしたことも自然な成り行きです。

政岑は、宗春の領民とともにある政治の仕方も学び、姫路の城下を繁栄させました。
当然、領民からの人気も高くなります。高尾太夫との恋愛も風流と受け入れられました。

領民とともに世を楽しむ政岑の治政観が、姫路城内にあった長壁神社を城下町に遷(うつ)す理由だったと思われます。

盆踊りさえ禁じられていた江戸のようにではなく、華やかな祭りを領民と共に楽しみ、領民に新たな役もかけず、年貢も軽くしていく政策を宗春から学んだ政岑が、幕府により処分されます。

正岑、越後高田へ

1741年6月4日、高尾太夫落籍(身請け)(この数日前に、吉宗が江戸・榊原家の上屋敷へ御成していることが藩日誌にあります。吉宗が政岑に何を話したのでしょうか?)
1741年6月13日、参勤交代で姫路へ下ることが許される。
1741年6月15日、姫路へ下る途中で日光へ参ることを願い出て許されます。
1741年6月19日、江戸を出発。日光東照宮へ参り、館林で榊原家初代康政の墓参りをし、中山道を通って姫路へ向かいます。
1741年7月15日、姫路に到着。高尾太夫も一緒です。
1741年9月16日、江戸藩邸に老中奉書が届きます。
1741年9月21日、老中奉書が姫路へ到着。供回りは少数で江戸城へ出てきなさいという命令でした。
1741年9月26日、政岑、江戸へ出発。
1741年10月12日、江戸に到着。
1741年10月13日、吉宗の命によって隠居謹慎を命じられます。
家督は政岑の嫡子・小平太(政永)が継ぐことが許されます。
その後、小平太(政永)に越後高田(上越市)への転封が言い渡されます。
1742年4月11日、政岑が越後高田に移ります。江戸から高田に移る際は、罪人を乗せる青竹で編んだ駕籠に乗せられていったと伝えられます。罪人扱いです。
1743年2月19日、高尾太夫に看取られ、政岑、29歳の若さで亡くなります。
高尾太夫は、尼になり蓮昌院と号し、上野池の近くに住んだとのことです。

榊原家はその後、6代130年間にわたり高田城主をつとめ、1871年の廃藩置県を迎えます。

ふたたび、姫路ゆかたまつ

高田への転封が決まると、庶民派の政岑は町の人々との別れを惜しみました。
政岑は自らゆかた姿で高尾と祭りに出かけて町の人々とゆかた祭りを楽しみました。
その、城主を不憫に思う民の気持ちがゆかた祭りに現れたといえます。

町の人々も政岑と高尾の一途な愛に共感し、喝采を送ります。
人々は若い二人の真摯な愛を支持し「ゆかた祭」が後世に引き継がれることになりました。

しかし史実では、政岑は、ゆかたまつりとされる1742年6月には越後高田に転封され、姫路を離れていたため、政岑を慕っていた領民が後付けしたという説があります。

歴代姫路城主の中で最も異彩を放つ風流大名・榊原政岑。
吉原遊郭は遊女・高尾太夫の身請けの主は姫路藩当主 ・榊原政岑(さかきばらまさみね)だった。その身請け金が1800両との2500両ともいわれる大金でした。現在のお金で3億円か?・・とも言われています。歴代姫路城主の中でもひときわ異彩を放つのが、榊原政岑です。榊原政岑ってどんなお殿様だったのでしょうか?
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