松平直矩(まつだいらなおのり)は、7度の転封(国替え)を経験したことから「引っ越し大名」とも呼ばれた江戸時代前期の大名です。
1年前に引っ越し、やっと落ち着いたかと思ったら、またすぐその1年後にも転封(領地替え)を幕府から命じられます。
現在でいえば「転勤族」です。
平和に時代であった江戸時代にも、辛い目に遭っていた大名が結構いたのです。
松平直矩の父・直基(なおもと) 4回もの転封
松平大和守家は、徳川家康の次男である結城秀康(ゆうきひでやす)の五男の松平直基(なおもと)を初代とする「御家門」と言われる高い家柄です。
直矩の父・松平直基は、義理の祖父である結城晴朝(ゆうき はるとも)に育てられます。
晴朝は秀康の長男・忠直があっさり結城姓から松平姓にしたことにショックを受けており、家康に願い出て直基を引き取ったのだそうです。
直基はのちに晴朝の隠居料である5,000石を相続しました。
五男というと、当時、その家の当主になるには程遠く、部屋住み=穀潰し扱いが約束された生まれ順です。なので、晴朝が孫・直基の処遇を哀れんで遺産を残した……という面もあったかもしれません。
直基も晴朝のその恩を返すためか、松平姓を許された後も結城家の「家紋」を使い続けています。また、結城家の祭祀を継いだりもしています。
その後、直基は、実に4回もの転封を命じられます。
直基は、越前・勝山城の越前勝山藩3万石から、越前大野藩5万石、そして、直矩が生まれた2年後には山形城の出羽山形藩15万石、次に、播磨姫路藩主15万石と転封しています。
寛永元年 (1624年)越前勝山藩3万石
寛永十二年(1635年)越前大野藩5万石
正保元年 (1635年)山形藩15万石
慶安元年 (1648年)姫路藩15万石
転封とは、領地を替えることです。
幕府の命令ですから、素直に引っ越し領地を替えねばなりません。
越前勝山藩や大野藩は、元々直基の父・秀康の領地の一部だったので、そこに領地が替っても不自然ではないかもしれません。が、山形藩や姫路藩はこの時期に限らず、たくさんの大名が結構な頻度でしょっちゅう出入りしている領地でした。
石高は領地替えのタイミングで加増され増えていますが、大勢の家来もろともの引っ越しの費用や手間ばかりかさんで、内政どころではなかったことでしょう。
それでも、直基は領地替えの先々で藩政に真面目に励んでいたということです。
その苦労が原因だったか分かりませんが、姫路藩への国入りをする途中で亡くなってしまいます。
享年45歳だったといいます。
直矩は、父・直基の代から苦労続きだったのです。
引っ越し大名 松平直矩、父の跡を継ぐ
父・直基が旅の途中で亡くなったため、直矩は僅か5歳で家督を継ぐことになりました。
ところが、西国の押さえとして重要拠点でもある姫路を、まだ5歳の藩主が務めるのは早計だと言う話になってしまい、翌年すぐに、越後・村上城の村上藩へと国替えになります。
ほんの一瞬、姫路城主となった直矩でした。
再び姫路城主に復帰するが越後騒動に巻き込まれ
成人してから改めて越後村上藩15万石から姫路藩15万石に領地替えを命じられます。
姫路藩に復帰したものの、しかし、今度は本家にあたる越後高田藩の御家騒動(越後騒動)が起きてしまいます。
直矩は、越前松平家の親戚である出雲広瀬藩主・松平近栄(ちかよし)と共に騒動の鎮静化(仲裁)に当たりましたが不手際を指摘され、幕府から咎められるはめになります。
そして、減封のうえ、さらに「閉門」という昼夜ともに外出できない刑罰を申し付けられたのです。
直矩は15万石から7万石に減らされて、閉門の身となったうえで、1682年、豊後日田藩(大分)への国替を命じられ永山城(日田陣屋)に入りました。
父の代から続く引っ越しの再開
その後も数年おきにいろいろな藩へと転封が命じられます。
天和二年(1682年)豊後日田藩 7万石
貞享三年(1686年)出羽山形藩 10万石(3万石加増)
元禄五年(1692年)陸奥白河藩 15万石(5万石加増)
日田藩に転封されてから4年後には、3万石加増の受けて、出羽・山形藩に移っています。
さらに6年後には、5万石の加増があったうえで白河城の陸奥・白河藩へ移動しました。
これで、15万石に戻りましたが、それまでの国替での引っ越し費用は膨大な額であり、たくさんの借金を抱えることになったと言います。
播磨姫路藩15万石⇒越後村上藩15万石⇒播磨姫路藩15万石⇒豊後日田藩7万石⇒出羽山形藩10万石⇒陸白河藩15万石へ転封。
なんと、ひとりで5回も転封が命じられています。
おまけに、直矩は父・直基の転封により、藩主に就任する前にすでに2回転封を経験しているので、生涯では7回転封していることになります。
7回もの転封から、まさに「引越し大名」だったのです。
松平直矩、辛抱強い殿様
江戸時代の大名家では、主君に不満を持って逆らう家臣や、藩主自身がなんらかのいろいろな理由で放蕩に耽るケースが少なくありません。
直矩は、「引っ越し大名」との揶揄される悪評など気にせず、真面目に仕事に励んだそうです。
直矩は歌舞伎が好みであり、芝居愛好者としても知られます。
数度の転封で藩財政は窮乏、藩士も困窮して、領内に苛酷な政治を敷いたが、自身は江戸を離れず、芝居見物や文芸に熱中していたことが、日記から知られます。
この日記が17歳から54歳で亡くなるまで書き続けた「松平大和守日記」という日記です。
日常の出来事や藩政、そして天気のことから、鷹狩・観劇などの遊びや気晴らし、お家騒動までのことが書かれているそうです。
現代では、当時の様子を知る貴重な資料となっています。
領内に苛酷な政治を敷いたと自身で日記に書いいますが、歴史上、お家騒動や大きな事件にまでは発展していないので、深く恨まれることはなかったのでしょう。
直矩は、1695年(元禄8年)4月15日に享年54歳で死去しました。
松平直矩(なおのり)1642-1695
家康の孫・松平直基(なおもと)(越前結城秀康の5男)の長男。
寛永19年(1642年)10月28日生まれ。
慶安元年(1648年)父の遺跡姫路15万石を襲封。7歳で姫路藩主。
慶安2年(1649年)越後村上に移封15万石
寛文7年(1667年)姫路にもどる。15万石
天和元年(1681年)越後(えちご)騒動で処罰された宗家の越後高田藩主松平光長に連座して閉門
天和2年(1682年)豊後日田藩 7万石
貞享3年(1686年)出羽山形藩 10万石(3万石加増)
元禄5年(1692年)陸奥白河藩 15万石(5万石加増)石高が復した。
元禄8年(1695年)4月15日死去。54歳。
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