酒井抱一の実兄の姫路城主・酒井忠以(宗雅)も芸術に秀で、一級の茶人大名でした。

姫路城
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姫路城主に、絵画、茶道、能、俳諧、和歌にも非凡な才能を示し、江戸時代後期の代表的な大名茶人の一人と言われる城主がいました。
特に絵画と茶湯にかけた情熱は並々ならないものであったといわれています。
酒井忠以(さかいただざね)、一得庵、宗雅、逾好庵と号した姫路城主です。

酒井忠以(宗雅)姫路城主となる。江戸時代24人目の城主。

姫路城主酒井氏は、1749年前橋から転封し、明治維新までの約120年間姫路藩を治めました。姫路城の最後の大名家です。
老中を務めていた酒井忠恭(ただずみ)が前橋より姫路へ転封されます。江戸時代に32人いた姫路城主の23人目となります。
そして24人目が酒井忠以(さかいただざね)(号宗雅(そうが))です。
忠以(宗雅)は、1756年12月23日、姫路藩世継、酒井忠仰の長男として江戸に生まれます。
11歳の時に病弱だった父・忠仰を亡くし、15歳の時母を亡くし、17歳の時に祖父・忠恭を亡くします。
18歳で、祖父・忠恭の養子とし姫路藩の家督を継ぎ藩主となります。

天明の大飢饉

藩政は、1783年(天明3年)から1787年(天明7年)までの4年間における「天明の大飢饉」といわれる飢饉で、姫路藩領内が大きな被害を受け、藩の財政は逼迫します。
1783年、この年は冬暖かく立春以降は急激な寒さに襲われました。
そして7月、浅間山が噴火し、その噴煙の影響からか夏の気温が下がり、全国的に大凶作となります。飢餓が全国に広がり、多数の餓死者が出たのです。
姫路藩も大被害を受けることになったのです。
このため、忠以(宗雅)はのちに藩財政を立て直した河合道臣(寸翁(すんのう))を見いだして家老として登用し、財政改革に当たらせました。
しかし、忠以(宗雅)は1790年に36歳の若さで江戸の姫路藩邸上屋敷で亡くなり、改革反対派である保守派からの巻き返しに遭い、寸翁(すんのう)は途中で失脚、改革は頓挫してしまいます。

河合寸翁(すんのう)の話は別に記事でお話しします。

徳川家譜代大名として、幕閣において将軍の補佐役として重要な地位にあり、藩政においては、他の藩と同じく財政の危機的状況にありながら、領民や家臣を慈しんで善政を行ったということです。
家督は長男の忠道が継ぐことになります。

忠以(宗雅)は、文芸をこよなく愛し、天性の芸術的な才能に恵まれていました。

書画、俳句、和歌、能、鍛刀などにその才能を発揮します。
忠以(宗雅)には「風雨草花図」などを描いた江戸琳派の絵師となった実弟、酒井忠因(ただなお・号 抱一)がいます。
抱一(ほういつ)は尾形光琳に私淑して江戸琳派を完成させた人物だといわれています。

忠以(宗雅)は、絵画においては、その抱一に手ほどきをしたとも伝えられるほどの画才を誇ります。
『兎図』(掛軸 絹本著色、兵庫県立歴史博物館蔵)や『富士山図』(掛軸 絹本著色、姫路市立城郭研究室蔵)等、単なるお殿様の趣味を超えた作品を残しています。

茶の湯

茶の湯には早くから関心を示し、松江城主・松平不昧(ふまい)と師弟の交わりを結んでからは茶道に深く熱中しました。

1779年、25歳の時、不昧は30歳、ともに日光東照宮修復を命じられたことを契機に不昧と親交を深めます。
修復はその年の5月から11月にわたる期間でしたが、この時に忠以(宗雅)は不昧より石州流茶道の手ほどきを受けます。
二人は茶道を介して師弟の間柄となり盟友となります。
江戸にいるときはそれぞれの屋敷を往き来し、さらに姫路藩と松江藩の参勤交代の道中で行き交う際にも、忠以(宗雅)は、不昧から石州流茶道の指導を受け、茶の湯を伝授され、のちには石州流茶道皆伝を受けて将来は流派を担うとまでいわれました。

松江城主・松平不昧(ふまい)

松平治郷(不昧)は1751年2月14日、松江藩(島根県)の6代城主、松平宗衍の次男として生まれ、1767年、17歳の時、父の隠居により家督を継ぎます。
松江藩7代藩主である治郷は、親しみを込めて「不昧公」とか「不昧さん」と呼ばれることの多いお殿様です。
「不昧」は号で本名ではありません。
治郷(不昧)は、江戸時代後期の大名茶人として知られています。
藩主としての務めを果たしながら、茶道を究め、名物茶器の蒐集を行います。さらに茶道具の研究成果を著作としてあらわし、不昧流茶道の祖となりました。
出雲地方(島根県)においては、地元の工芸美術の振興に大きく貢献し、さらには茶道を通した芸術文化発展の基礎を築いたといわれています。

筆まめの人

また忠以(宗雅)は、趣味や日々の出来事や天候等を「玄武日記」に22歳の正月から書き遺しています。また、「逾好日記」に33歳の正月から書き遺しています。
なかなか几帳面な筆まめの人だったようです。
忠以(宗雅)は、1786年末、江戸大手上屋敷に新たな茶室「逾好庵」を設けます。これに因んで名付けられた「逾好日記」は、(1787~1789年の2年7ヵ月、茶会179回)は、1787年正月から1789年10月までに催し、あるいは招かれた茶会の記録です。
その茶会の記録には、まず客人の顔ぶれにはじまり、道具の取り合わせから出された懐石料理のメニューにいたるまでがこと細かに記されています。

また「逾好日記」には、忠以(宗雅)の、1788年の参勤交代の途中、東海道「見付宿」での不昧との茶事の様子が、詳細に記録されています。

忠以(宗雅)は、大名でありながらひとりの芸術家であった。

そして、1789年4月14日、忠以(宗雅)は参勤交代のため、江戸に向かいます。
駿府国柏原(現在のJR田子浦駅の辺り)の建場で不昧と会います。二人は暫くの間言葉を交わし再び出会いの茶事を催しました。
これが不昧と忠以(宗雅)の出会いの最後となったのでした。
江戸へ着いた忠以(宗雅)は病に倒れ、回復することなく、翌1790年7月17日、亡くなります。
享年36歳。

忠以(宗雅)の生涯に、大名でありながら、江戸文化の創造発展を担った、ひとりの芸術家の姿を見ると言っても過言ではないでしょう。

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