姫路城

河合寸翁(かわいすんのう)の祖父・川合定恒(かわいさだつね)の物語

一般には晩年の号の河合寸翁(すんのう)で知られる河合道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)は、江戸時代後期の姫路藩の家老です。

姫路藩・酒井氏4代に50年余にわたって仕え、姫路藩の財政再建に貢献した人物です。

前橋の酒井家が豊かな土地・姫路へ移るに際し、河合寸翁の祖父・川合定恒(さだつね)の物語がありました。

この記事では、河合寸翁の祖父・川合定恒について調べました。

河合寸翁(すんのう)の祖父・川合定恒(さだつね)

江戸時代中期の前橋藩。
1706年(宝永3年)に川合定恒が生まれます。

河合(川合)家は、もともと、河合宗在(むねあり)が徳川家康に仕えていましたが、
1561年(永禄4年)に酒井正親(さかい まさちか)に仕えるようになってから、代々酒井家の家老を務める家柄でありました。

川合定恒は、前橋藩酒井家の家臣・川合章恒の子として生まれ、藩主酒井忠恭(さかい ただずみ)に禄高1000石の家老として仕えます。

藩主・酒井忠恭(ただずみ)

酒井忠恭は、前橋藩の分家の越前敦賀藩主酒井忠菊(さかい ただきく)の四男です。

前橋藩主となっていた実兄の酒井親本(さかい ちかもと)に子がなかったため、同じく養子として本家を継ぎ、前橋藩主となったのです。

1731年(享保16年)家督を相続。

そして、
1749年(寛延2年)酒井忠恭は前橋から姫路に転封します。

酒井忠恭が、(江戸時代の)第代目の姫路城主となったのです。

この後、廃藩置県まで、10代およそ120年間、酒井家が姫路城主(姫路藩主)となったのです。

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前橋藩の財政状況

酒井家の前橋藩は財政が極端に悪化していました。

前橋藩領内は、利根川の氾濫によりたびたび被害を受けるあまり豊かな土地ではありませんでした。

そもそも前橋城は、利根川の急流を防御に利用した堅牢な城です。

が、逆にその利根川の激流に年々城地を侵食されていて、5代藩主・酒井忠挙(さかい ただたか)の頃(1706年(宝永3年))には、利根川の氾濫により本丸3層の櫓が倒壊しています。

(ちなみに、次の松平氏の時代には本拠が川越に移され、前橋城は廃城になっています。)

加えて、
酒井家という格式を維持する費用、
老中職など幕閣での勤めにかかる費用、
放漫な財政運用、
により

前橋藩の財政は破綻寸前であったのです。

豊かな他領への国替え

酒井家は財政難のために、利根川の氾濫で荒廃している実高に乏しい前橋領から豊かな他領への転封を画策します。

もはや国替により危機を脱するしか方途がないというのが、藩首脳の暗黙の了解となってゆきます。

1710年(宝永7年)、7代藩主・酒井親愛(さかい ちかよし)が老中に転封願い、前橋から近畿地方の豊かな地への国替を幕府に働きかけましたが失敗しています。

再び、姫路への転封工作

酒井忠恭の頃も同様の状況が続いていました。

家老の本多光彬や江戸の用人犬塚又内らは、同じ15万石ながら近畿地方の先進地に位置し、内実はより豊かと言われていた姫路に目をつけ、ここに移封する画策をするのです。
藩主・酒井忠恭もこの案に乗ったのでした。

しかし、本多と同じ家老の川合定恒は、
「前橋城は神君より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」
「酒井家が家康公より任された要衝の地を捨てるのは不忠である」
として姫路転封工作に強硬に反対したのでした。

以後、本多、犬塚らは、川合定恒を通さずに秘密裏に、幕府側用人・大岡忠光ら幕閣への国替え工作を行いました。

もちろん幕府に対する工作は口だけではありません。
幕府を動かすには賄賂が付き物です。
多額の金品が費やされたと思われます。

財政破綻している藩財政の状況を考えると、その賄賂は当然、厳しい暮らしをしている領民から搾り取るしかなかったのです。

そして、
前橋藩の姫路への転封は成功しました。

酒井忠恭自身が幕閣の重鎮だったことも影響したのでしょう。

実高の低い貧しい前橋から豊かな姫路へ行くことは、酒井家や家臣からすれば大成功。
しかし、儒教道徳からすれば名誉なことではない。

川合定恒は無念の思いだったと想像できます。

前橋城下の町人も代表11人を江戸に派遣し中止を嘆願したということです。

そのころ姫路では

そのころ姫路では、酒井家の期待とは全く逆の状況を呈していました。

1748年(寛延元年)の夏に大干ばつが起きていました。
しかし、姫路藩の松平家は年貢徴収の手を緩めませんでした。

領民の不満が嵩じている中で、藩主の松平明矩(まつだいら あきのり)が11月16日に36歳で死去します。
そして、家督は幼少(11歳)の長男・松平朝矩(まつだいら とものり)が継ぐことになったのです。

もともと姫路は西国を抑える要地であり、藩主が幼少の場合には他国に国替えという不文律がありました。

藩が藩主の死去、幼い後継ぎと動揺する中、印南郡的形組の農民が12月21日に蜂起します。

この一揆は藩による「家財を売り払っても年貢完納ができない者に関しては、納付を来季まで待つ」という触書によって一旦は収まりました。

しかし、1月15日に前橋の酒井忠恭と姫路の松平朝矩の領地替の命令が出されたことで、借金の踏み倒しを恐れた領民は1月22日に再び蜂起します。
藩内各地を襲撃し、その被害は藩の全域に及んだということです。

「寛延の百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が、前年の大干ばつから重税と転封の噂が重なり起こっていたのですが、酒井家は気がついていなかったということです。

一揆は2月には一応は収まりました。
が、この混乱が尾を引き、酒井家の転封は5月22日にずれ込みました。

川合定恒、避難民を救済

藩主・酒井忠恭の説得で川合定恒は了承し、先立って姫路に向かい国替えの準備に当たっていました。

その年の夏に姫路領内を2度の台風が襲います。

7月3日には姫路領内を一つ目の台風が襲い、城下の中心地を流れる船場川が決壊します。
姫路城下を洪水が襲う事態となりました。
この時は死者・行方不明者を400人以上も出したということです。
川合定恒は独断で避難民を姫路城内に収容し、米蔵から備蓄米を被災者に分け与えます。

8月にも再び台風が襲います。
今度は、田畑だけではなく領民3000人余がさらに死亡する大被害を受けます。

前年と合わせた大被害を受けた姫路領にまともな年貢収入は期待できません。
転封の費用も相まって酒井家はますます財政が悪化することとなったのです。

川合定恒は本多、犬塚の両名を殺害

1751年(寛延4年)7月10日、転封や災害の後始末を終えた川合定恒は、本多光彬と犬塚又内を自邸に招き、二人を殺害してしまいます。
そして、川合定恒は、代々の藩主への謝罪状をしたため、自害したのでした。

享年46歳。

河合寸翁の父・川合宗見(かわい むねみ)、旧禄を回復

川合定恒の自害のあと川合家はお家断絶となりました。
母や妻子は実弟の松下高通に引き取られます。

1755年(宝暦5年)、川合定恒の功績や由緒ある家柄が考慮されて、次男の川合宗見が30人扶で召し出され書院番となります。

川合家の家名再興が叶ったのです。

1762年(宝暦12年)1月、新知200石を賜り小姓番となります。
1767年(明和4年)9月、100石の加増を受け番頭となります。
1769年(明和6年)2月、芸事奉行に、
1770年(明和7年)5月、100石加増され、
1772年(明和9年)1月、年寄役になります。
1775年(安永4年)12月、加増200石され、
1777年(安永6年)7月、城代を兼務することなり、
1778年(安永7年)、400石の加増を受け、父・川合定恒の旧禄1000石を回復します。
そして、家老となったのです。

1787年(天明7年)6月12日、川合宗見、死去。
享年55歳でした。

家督は嫡男の道臣(みちおみ)が相続しました。

この川合宗見の嫡子・道臣(みちおみ)が河合寸翁(すんのう)です。
河合寸翁は、10代酒井忠以(ただざね)、11代酒井忠道(ただひろ)、12代酒井忠実(ただみつ)、13代酒井忠学(ただのり)の4代の姫路藩主に家老として50年仕え、藩財政をみごと再建することになります。

そして、先祖の姓の「河合」に復することを許されたのです。

河合寸翁の功績は別記事にまとめています。

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川合定恒が登場する小説(川合事件)

川合定恒が登場する小説があります。

大仏次郎(おさらぎじろう)『夕凪(ゆうなぎ)』(昭和26年)
松本清張(まつもとせいちょう)『酒井の刃傷(にんじょう)』(同28年)
久生十蘭(ひさおじゅうらん)『無惨なや』(同31年)
池宮彰一郞(いけみやしょういちろう)『九思(きゅうし)の剣』(平成6年)

大仏次郎時代小説全集〈第16巻〉大久保彦左衛門,お化け旗本,夕凪 収録 古書で入手困難

「酒井の刃傷(にんじょう)」収録しています。

「無惨やな」など の10篇。現在,文庫本や単行本では読めないものを集めている。

「九思の剣」を含む6作を収録。武士道の厳しさと哀しみを生き生きと伝える傑作短編集。

まとめ

前橋藩酒井家の家老・川合定恒は、財政難のために、利根川の氾濫で荒廃し実高に乏しい前橋領から豊かな他領への転封の画策の反対します。
「前橋城は神君より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地」であり、「酒井家が家康公より任された要衝の地を捨てるのは不忠である」と大反対したのです。
それでも、家老本多光彬や用人犬塚又内が、川合定恒を通さず秘密裏に、幕閣への工作を行い、姫路への転封に成功します。

川合定恒は、藩主酒井忠恭の説得で了承し、先立って姫路に向かい転封の準備に当たりますが、無念の思いだったのでしょう。

忠義を重んじる武士道からすれば、この行為は耐えられないことだったのでしょう。

酒井家初代の姫路藩主酒井忠恭は死後、遠い前橋に運ばれ、元の菩提寺である龍海院に埋葬され墓が建ちました。
その後の藩主も同様に龍海院に墓所がつくられ、それは代々幕末まで続きました。

前橋のお寺に、姫路藩の藩主のお墓が並んでいます。
およそ120年に渡る酒井家歴代姫路藩主10名のお殿様が眠っています。

最後までご覧いただきありがとうございます。

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