姫路城

河合寸翁(かわいすんのう)は、姫路もめんで借金480億円を完済した姫路藩名家老

江戸時代後期、借金で破たん寸前の姫路藩を立て直した名家老がいます。
名前は河合寸翁(道臣)(かわいすんのう)。

この記事では、藩の財政を再生させるために、特産品の姫路もめんを江戸で専売できるようにしたほか、塩田開発、革・染物・人参・焼き物等の生産奨励など様々な改革を実行した河合寸翁(道臣)の生涯をまとめています。

河合寸翁(かわいすんのう)失脚

河合寸翁(道臣)は、姫路藩家老・川合宗見の子として生まれ、幼名は猪之吉、のち隼之助と改名しています。
のちに、藩主酒井忠道より道臣の名を下賜され、晩年寸翁(すんのう)と号しました。

1783年、この年は冬暖かく立春以降は急激な寒さに襲われました。
そして7月、浅間山が噴火し、その影響からか夏の気温が下がり、大凶作となり、飢餓は全国的なものとなり、多数の餓死者が出たのです。
姫路藩も大被害を受けることになったのです。
1783年(天明3年)から1787年(天明7年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、姫路藩の藩財政は逼迫します。
その時の藩主酒井忠以(宗雅)は、寸翁を見いだして家老として登用し、財政改革に当たらせました。
しかし、忠以(宗雅)は1790年に36歳の若さで江戸の姫路藩邸上屋敷で亡くなり、改革反対派の巻き返しに遭い、寸翁は途中で失脚、改革は頓挫してしまいます。
1787年、21歳で家督を相続して、家老として藩財政改革に着手しましたが、いったん挫折してしまったのです。

江戸琳派の祖・酒井抱一とその実兄で第24代姫路城主の酒井忠以(宗雅)のお話は別記事で

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藩の7年分の収入に当たる73万両という負債、寸翁は再び

十数年ののち、忠以(宗雅)のあと家督を継ぎ、次の姫路城主になった嫡男・忠道(ただひろ、ただみちとも)の命により、1808年寸翁は再び、藩の財政改革を遂行することになるのです。この時、寸翁42歳です。
このころ、江戸時代後半は、町人の力が強くなってきて、各藩とも大変大きな財政赤字に苦しんでいました。
姫路藩も。藩の7年分の収入に当たる73万両(現在の価値にして約480億円)という負債を抱えていたといいます。

1810年には川合姓を旧姓の河合に戻すことを許されています。

河合寸翁のおじいさん・川合定恒の物語があります。

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河合寸翁の改革始まる

寸翁は、領民の苦しい生活を援助するために、画期的な金融政策を行いました。米を利子をつけることなく貸し与えたり、低い金利での生活資金の融資など画期的な金融政策です。
また、災害や不作などいざというときのために共有の米を保存する備蓄倉庫、「固寧倉(こねいそう)」を設けたりもしました。
現在でも、食糧の備蓄は、必須の防災対策です。
養蚕所、織物所、染色工場、陶器所などの設立をはじめ、製品検査のための革会所の設置や朝鮮人参の栽培など広範に産業を興す政策を実施しました。

姫路もめんの専売制とその江戸直積み

なかでも著名な政策展開は、姫路もめんの専売制とその江戸直積みです。10年におよぶ準備と試行を経て1821年に実施されたです。
江戸時代、木綿(もめん)は庶民の衣服として普及し、その存在は大変重要となっていました。瀬戸内地域の姫路は幸いにして温暖な天候から木綿の特産地として最適でした。
しかし、このころ、木綿(もめん)の売買の大半が大坂商人に、仕入れ時の買い叩きや、かなりの中間利益が吸い取られているなど、支配されていました。
寸翁は、木綿(もめん)の売買権を商人から取り戻し藩直轄すること困難をきわめ、大変苦労します。
しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、1823年に、やっと江戸への木綿専売が認められたのでした。
藩主・忠道の八男・忠学(ただのり)の正室が徳川第11代将軍・家斉(いえなり)の娘・喜代姫(きよひめ)であることから、将軍・家斉の後ろ盾を得て、売買権を藩直轄とすることに成功したとも言われています。
姫路城下の木綿商人と共に木綿会所を作ります。
そして、木綿を「玉川晒(さらし)」という姫路藩の特産品として、大坂(大阪)の商人を通さず、直接江戸で販売しました。
薄地で柔らかく、品質に優れた姫路もめん。「姫玉」、「玉川晒(さらし)」などの商標で全国市場を席捲きし、遠く東北にまで販売されていたそうです。
この木綿の専売により、姫路藩では木綿(もめん)だけで年24万両(約158億円)の正金銀が入るようになっていました。
73万余両もあった累積債務も、専売開始から僅か7年後には完済し、新たな蓄えをも築くに至りました。

姫路のお菓子

また、寸翁も藩主と同じように茶をたしなんだことから、産業を盛り立てるため和菓子作りを奨励します。
そして、和菓子の製造技術を習得させるため職人を江戸や、京都まで派遣するのです。
姫路の菓子作りの原点となったのが、この時、職人達の持ち帰った技術です。
また、現在の姫路を代表する姫路銘菓「玉椿(たまつばき)」の名付け親は寸翁です。

寸翁は長崎の出島(オランダ商館)にも職人を派遣し、ヨーロッパの油菓子作りの技術の習得を命じました。
その技術を身につけた職人たちは姫路に戻り、油菓子の生産をはじめました。
現在の姫路名産の油菓子、カリントウ(播州かりんとう)の起源です。




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他にも東山焼(とうざんやき)、

竜山(たつやま)石などの藩営・専売や

新田・塩田の開発などで成果をあげます。

 

1841年に亡くなります。
75歳でした。

仁寿山校(じんじゅさんこう)

4代の藩主に仕え、酒井家の家老として執政30年におよびます。
その間、姫路藩の経済政策をたくさん実施し、73万両にのぼった藩の借金(藩債)の整理に貢献するなど藩の大改革に取り組んできました。

寸翁は1821年、藩の改革とその実行を成功させた功績によって姫路の東部に位置する奥山に阿保屋敷を与えられました。
そして仁寿山(じんじゅざん)と名付けた山の谷間に仁寿山校(じんじゅさんこう)という庶民が学べる私塾を開きます。新たに私塾を創設することで、藩主の恩に報いんとしたのです。
姫路藩では当時、藩の人材を養成するため藩校の「好古堂(こうこどう)」を開設していましたが、寸翁の仁寿山校でも、藩外から頼山陽(らいさんよう)など著名な学者を講師に招き、領民一人一人を尊重し、国に役立つ人材の養成を目指しました。
人材の大切さを知っていたやさしい辣腕の役人だったのでしょう。

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