姫路城主の弟・酒井抱一(ほういつ)、「江戸琳派」の祖となる。

姫路城
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酒井忠因(さかい ただなお)は、号を抱一(ほういつ)と言います。
江戸時代32人の姫路城主の24代目である酒井忠以(ただざね)(号を宗雅(そうが))の7歳年下の実弟です。
絵画の手ほどきをしたのは、この分野にも非凡な才能があった兄の忠以(宗雅)と言われています。

やがて抱一の画風は「江戸琳派」と呼ばれ現代でも人気の高い近世を代表する画家になり、酒井家の歴史上もっとも有名な人物となります。

抱一は、江戸の姫路藩別邸で、次男(第4子)として生まれます。

酒井抱一の酒井家は、老中や大老を輩出するほどの名門の家柄です。
1761年、抱一は、江戸神田小川町の姫路藩別邸で、姫路藩15万石の次期藩主・酒井忠仰(ただもち)の次男(第4子)として生まれます。

次男である抱一は兄・酒井忠以(宗雅)に何かあった時の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられました。

仮養子とは、嫡子または定まった家督相続人のない大名や幕臣が、参勤交代や公用で遠国に旅行する時、不慮の場合に備えて幕府に願い出て許可を得た仮の養子のことです。
何かあったときの交代要員です。

7歳で病気がちであった父・忠仰(ただもち)を、11歳で母・里姫を、12歳で祖父・忠恭(ただずみ)を亡くし、兄・忠以(宗雅)が親代わりとなりました。

抱一には、世継ぎのいない大名家などへ養子に行く話もたくさんあったようですが、全て断っています。理由はわかりません。

抱一は、1777年、17歳で元服して、1,000石を与えられます。
が、同年兄・忠以(宗雅)に長男・忠道(ただひろ)が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまいます。
酒井家の未来の当主が誕生したことで、用済みになった次男坊の抱一はますます身軽になって、大名子弟の悪友たちと享楽の道に進んでいくことになります。
遊郭、料亭、俳諧、狂歌などなど枚挙にいとまがありません。

しかし、そんな抱一を兄・忠以(宗雅)は文化の道に誘い入れたとされています。

抱一が生まれた酒井家は文化芸術に非常に関心のある家庭だったようです。
抱一は次男でしたが、名門武家の一員として、ひと通りの教育を受けました。
教育は武芸のみならず、和漢教養、茶道、書画などの文化的な教養も含まれています。

抱一は、文芸を愛好する酒井家の血を継いで、画(え)はもちろん、俳諧(はいかい)、和歌、連歌、国学、書、さらに能、仕舞などの諸芸をたしなみました。
兄・忠以(宗雅)も茶人・俳人として知られ、当時の江戸大手門前の酒井家藩邸は、文化サロンのようになっていたとされています。

抱一が絵画の世界に没頭する頃、兄・忠以(宗雅)の興味は絵画から茶湯に移っていきました。

抱一が絵画の世界に没頭する

抱一は、最大の画派である狩野派の中橋狩野家の狩野高信(かのうたかのぶ)、狩野惟信(かのうこれのぶ)から絵の手解きを受けます。

また、酒井家は、鎖国時代に唯一外国と関わりのあった長崎で誕生した長崎派の宋紫石(そうしせき)、栄紫山(そうしざん)親子を何度も屋敷に招くなど交流がありました。
そのため、抱一は、長崎派からも絵の技術を学んでいたとされています。

兄・忠以(宗雅)には南蘋風(長崎派の沈南蘋(しんなんぴん)の写実的な花鳥写生画風)の作品が残っています。

浮世絵師の歌川豊春

1780年代頃になると、抱一は浮世絵師の歌川豊春に弟子入りし、浮世絵の技術を学びました。

抱一は二十代です。

抱一は、浮世絵木版画の図案は制作しませんでしたが、肉筆の美人画を好んで描いていたようです。
抱一の肉筆浮世絵は、馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描いています。10点ほど現存するとされますが、どれも趣味の域をはるかに超えた、極めて優れた作品を残しています。

様々な画派の絵画技術を学んだ抱一の作品、肉筆美人画「松風村雨図」(歌川豊春の「松風村雨図」(浮世絵太田記念美術館蔵)の模写)には、長崎派と歌川豊春から学んだ絵画技法が見られます。

抱一の肉筆美人画は、師匠の歌川豊春作と見紛うばかりの高い完成度でした。
しかし、そこまで絵画制作に熱心に取り組んでいたわけではなく、お遊び程度で絵の制作を行っていた姿勢が見られます。
抱一は自分独自の美人画様式を生み出すこともなく、画号も新たに持っていません。

俳句にも挑戦

若い抱一は絵画だけではなく俳句にも興味を示し、当時大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門します。

俳句に興味を持つ抱一は江戸座の亡き遠祖・宝井其角の詠んだ俳句にも関心を持つようになり、難解な句風を解き、自身の創作にも軽やかに生かしました。

抱一は、書き始めた1790年寛政2年以前の句も含む句日記「軽挙館句藻」(静嘉堂文庫に伝わる全10冊の自筆句稿)を晩年まで書き続けます。
1812年文化9年には、ここから自選した句選集「屠龍之技」を刊行していることから、俳句に関しては熱心な活動を行っていたことが分かります。

狂歌においても

狂歌においても、当時全盛期を迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連に深く交わります。
狂歌本に抱一の句や肖像が収録され、並行して戯作の中に抱一の号や変名が少なからず登場しています。

その歌は必ずしも一流とは言えませんが、しばしば狂歌本の冒頭に載せらました。
その肖像は御簾越し(おすだれごし)で美男子として描かれるなど、貴公子としてグループ内で一目も二目も置かれていたことを表しています。

1790年寛政2年、兄・忠以(宗雅)が36歳の若さで亡くなります。

「寛政の改革」

10代将軍・徳川家治のもとで田沼意次(たぬま おきつぐ)が老中として権勢をふるっていました。
田沼意次は、商売を盛んにする政策を施し、経済を活性化させます。
その半面で、政治家や官僚が賄賂を受けとることを黙認していたため、幕府のモラルが著しく低下していました。

そして、当時幕府の赤字は膨らみ、それに加えて全国各地で自然災害や飢饉が発生します。
それにともなって「打ちこわし」や「一揆」が増えていました。

そんな世情が、お金に厳しく清廉な政治ができる政治を求める世論を高めていったのです。
田沼意次は失脚し、松平定信(まつだいら さだのぶ)が中心となって行った一連の政治改革が「寛政の改革」です。

幕府の財政赤字を減らそうとさまざまな取り組みがなされました。
さらに、庶民が贅沢な暮らしをすることも取り締まり、それを禁止します。

のちに、厳しすぎる方針が続いたため、一般庶民だけでなく官僚からも反感を買うようになります。
さらに期待していた結果が出ず、松平定信は改革を始めてから6年後に老中を解任され、失脚します。

仕方なく出家をした酒井抱一

文化と賄賂の田沼政権が幕を閉じ、「寛政の改革」として豪奢な文化を敵視した松平定信が老中になったのです。
1787年のことでした。
浮世絵も、文芸も、統制の対象になりました。
その影響は抱一にも及んだと考えられます。

兄が亡くなると抱一は、1797年寛政9年10月18日、37歳の時に、
西本願寺の法主・文如上人(ぶんにょしょうにん)にしたがって出家をしました。

法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜ります。

なぜ、抱一は出家したのかは分かっていません。
この頃、兄・忠以(宗雅)亡き後、酒井家では兄・忠以(宗雅)の嫡男・忠道が弟の忠実(ただみつ)を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一は実家での居場所が無くなります。
そして、政治批判の禁止や風紀取り締まりなどの「寛政の改革」で、浮世絵や狂歌に影響が及びます。
このような状況から、抱一の転向を余儀なくさせ、致し方なく出家したとも考えられています。

出家は、必ずしも抱一の本意ではなく、吉原通いも終生続けています。
が、ただ、抱一の人生の転機であったことには違いない思います。

「抱一」の号を、以後終生名乗ることになります。

一応「権大僧都」という格式ある名前ももらいました。
そして、出家したのだから節度は保たなければならないものの、ある程度の自由はあります。
おまけに、金銭を充分に与えられたため経済的にも困らない状態です。

僧になったことで武家としての身分から完全に解き放たれ自由な時間は増え、屋敷を出て市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになったのです。

出家の翌年、江戸姫路藩邸を出て、浅草千束(せんぞく)の庵(いおり)に移って閑居します。

そして、「老子」巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになります。

絵師・谷文晁(ぶんちょう)、書家・亀田鵬斎、歌人・橘千蔭との交友が本格化するのもこの頃です。
また、歌舞伎役者・市川団十郎などとも交流を深めます。
芸術三昧の日々です。

尾形光琳への傾倒

抱一が「尾形光琳」に魅せられ傾倒し、私淑し始めるのは、1800年頃のことでした。

1809年文化6年に下谷根岸に落ち着くまでの十余年、江戸市中を転々とし、俳諧師としての実績を重ねつつ、絵画においては光琳の表現を独自に咀嚼(そしゃく)していきます。

尾形光琳は、抱一が生まれる前に活躍していた絵師で、1716年に亡くなっています。
光琳は、王朝時代の古典を学びながらも、光琳もまた、光琳の生まれる前に活躍していた俵屋宗達の作品を模写しながら、絵画様式を確立させます。
光琳は、俵屋宗達のはじめた琳派を、ひとつの様式として確立させた人物です。

抱一は徐々に、この光琳風の絵画を描いていくことになります。
しかも、酒井家には、かつて一時光琳が仕えており、その作品が残っていたといいます。

光琳百回忌

抱一は、光琳没後100年に当たる1815年文化12年6月2日には光琳百回忌を開催し、自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行いました。

そして、根岸の寺院で「光琳遺墨展」を催します。
この展覧会を通じて出会った光琳の優れた作品は、抱一を絵師として大きく成長させます。
そして、次々と大作に挑んでいくことになります。

抱一による光琳の研究と顕彰は光琳百回忌の後も続けられます。
1813年文化10年、尾形家の系図に既存の画伝や印譜を合わせ「尾形流略印譜」を刊行
1815年文化12年、縮小版展覧図録である「光琳百図」を出版
1819年文政2年秋、光琳墓碑の修築
1823年文政6年、光琳の弟・尾形乾山(けんざん)の墓を発見し、作品集「乾山遺墨」を出版
1826年文政9年、「光琳百図」を追補した「光琳百図後編」二冊を出版

このように光琳の作品に深く傾倒し、光琳の研究を熱心に行っていた抱一は、
光琳の画風を取り入れ、また
絵師・円山応挙(まるやま おうきょ)を祖とする円山派
絵師・呉春(ごしゅん)を祖とする四条派
大和絵の技法を基調とする土佐派
中国の絵師・沈南蘋(しんなんぴん)が写生的な花鳥画の技法を伝えた南蘋派(なんぴんは)
絵師・伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)
などの技法も積極的に取り入れ、独自の立場でその作風を試み、それを確立するのです。

俵屋宗達や尾形光琳が京都で活躍していたのに対し、抱一は江戸で活躍していたため「江戸琳派」の創始者と呼ばれるようになります。

最高傑作といわれる大作「夏秋草図屏風」

雨華庵と名付けた根岸の庵居での晩年は、代表作を次々と制作し、かつて離反した大名社会からも高い評価を得ます。

1817年文化14年になると、古河藩のお抱え蒔絵師・原羊遊斎(はら ようゆうさい)と手を組み、抱一下絵による蒔絵制作が本格的に行われます。

1821年文政4年、一橋家が所有する尾形光琳の金屏風「風神雷神図屏風(びょうぶ)」(重要文化財)の裏面として制作したのが、抱一の最高傑作といわれる大作「夏秋草図屏風」(重要文化財、東京国立博物館)です。
時の文化人、一橋家徳川治済(とくがわ はるさだ / はるなり)(8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父)からの依頼により制作しています。
表の金地の風神雷神図に対し、地色に銀を用い、雷神の裏に雨に濡れた夏草、風神の裏に風になびく秋草を、光琳よりもリアルに描写します。
天空の神に対し地面の草花を選んだ点も含め、光琳への敬愛ぶりを数々の趣向に込めて表現しました。

抱一にとって私淑した憧れの光琳の作品の裏面に描くことができたのは、とても喜ばしい出来事であったのではないでしょうか。

現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されています。

ほかに「十二か月花鳥図」(御物)、「葛秋草(くずあきくさ)図屏風」(重要文化財、HOYA株式会社)、「秋草鶉(あきくさうずら)図屏風」(山種美術館)、「雪月花図」(MOA美術館)、「月に秋草図屏風」(個人蔵)などがあります。

最後に

亡くなる2年前の1826年文政9年にも、先の「光琳百図」を追補した「光琳百図後編」二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはありませんでした。

晩年も精力的に創作に打ち込んでいましたが、1828年文政11年下谷根岸にある自宅、雨華庵で亡くなります。
68歳でした。
墓所は築地本願寺別院です。

酒井抱一は、名門の大名家に生まれましたが、大名の束縛された生き方を嫌い、悠々と文雅の世界に生き、マルチな才能を伸ばします。
そして、抱一は、尾形光琳の作品を模写し続け、様々な画派の技術を取り入れ独自の絵画様式を確立し、「江戸琳派の創設者」と呼ばれるようになりました。

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