姫路城

姫路城の歴代城主は(その2・江戸時代の姫路城の城主まとめ)

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世界遺産に日本で最初に登録された姫路城は、約600年の歴史をもちます。
その長い歴史のなかでも江戸時代には32人もの歴代城主がいました。

この記事では、代々替わっていった江戸時代の姫路城の城主をまとめています。

江戸時代になる前の歴代城主は別記事にあります。

 

目次

17代姫路城主 池田輝政てるまさ (初代姫路藩主)

1600年(慶長5年)10月15日、池田輝政が「関ケ原の戦い」の戦功により三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城します。
池田輝政が、姫路藩の初代藩主となります。

池田輝政は、織田信長の重臣・池田恒興の次男です。

1601年(慶長6年)から8年掛け、池田輝政は、城下町も含め姫路城の大改修を行い、広大な城郭を築きます。

1609年(慶長14年)、五層の大天守が完成します。
現在に残る姫路城の誕生です。

池田輝政は播磨52万石と周辺の地域も収める100万石の大大名として姫路城を築きました。
姫路宰相、西国将軍と称されたのです。

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1600年(慶長5年)9月 関ヶ原の戦い

1603年(慶長8年)家康、征夷大将軍となる

18代姫路城主 池田利隆としたか (2代姫路藩主)

1613年(慶長18年)1月25日、池田輝政が病で死去し、
6月6日、嫡男の池田利隆が跡を継ぎます。

岡山藩を継いでいた三男の池田忠雄に播磨国内西部の一部を譲り、42万石となりました。

 

19代姫路城主 池田光政みつまさ (3代姫路藩主)

1616年(元和2年)6月13日、池田利隆が死去し、嫡男・池田光政が遺領(42万石)を継ぎます。

 

1614年(慶長19年)大坂冬の陣

1615年(元和元年)大坂夏の陣、豊臣氏滅亡

 

20代姫路城主 本多忠政ただまさ (4代姫路藩主)

1617年(元和3年) 3月6日、池田光政は幼君(8歳)であったため、西国の大名を抑える要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩(因幡、伯耆両国)32万5,000石に転封されます。

同年7月14日、本田忠政が伊勢桑名より姫路に入封します。
この時、播磨の所領は中小藩に分割され、姫路は15万石とされました。

本多忠政は、大阪の陣の武功が認められての西国大名の抑えとしての姫路城入城です。
本田忠政は、徳川四天王のひとり猛将・本多忠勝の子で、正室は徳川家康の孫である熊姫です。

1618年(元和4年)、豊臣秀頼に嫁いでいた徳川家康の孫・千姫が本田忠政の嫡男・本田忠刻に嫁ぎます。
この時、姫路城西の丸の造営、化粧櫓などの築造で、現在に残る城郭が完成します。

この本多家以降は榊原家や酒井家、松平家といった徳川家譜代の大名が姫路城に入城し西国大名への睨みを効かせています。

千姫の物語は別の記事にあります。

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21代姫路城主 本多政朝まさとも (5代姫路藩主)

1631年(寛永8年)8月10日、本多忠政が死去し、
10月18日、本多忠政の次男・本多政朝が遺領を継ぎます。

本多政朝は、兄の嫡男・忠刻が病死(1626年(寛永3年))したあと、宗家の嫡子となっていました。

 

22代姫路城主 本多政勝まさかつ (6代姫路藩主)

1638年(寛永15年)11月20日、本多政朝が死去し、

1639年(寛永16年)本田忠政の甥・本多忠朝の次男の本多政勝が、養子となって遺領を継ぎます。

 

23代姫路城主 松平(奥平)忠明ただあきら (7代姫路藩主)

1639年(寛永16年)3月3日、遺領を継いだ本多政勝が大和郡山へ移封され、
その後に松平忠明が姫路へ入封(18万石)します。

松平忠明は、徳川家の重臣・奥平信昌の四男で、母は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)です。
つまり、家康の外孫にあたります。

 

24代姫路城主 松平(奥平)忠弘ただひろ (8代姫路藩主)

1644年(正保元年)3月25日、松平忠明が江戸藩邸で死去(享年62)し、
5月18日、嫡男・松平忠弘が遺領を継ぎます(15万石)。

 

25代姫路城主 松平(越前・結城)直基なおもと (9代姫路藩主)

1648年(慶安元年)6月14日、松平忠弘が出羽山形に転封され、
6月14日、松平直基が城主になります。(15万石)

松平直基は、徳川家康の次男・結城秀康の五男です。

松平直基は、山形から姫路に国替えを命じられたのですが、
そのわずか2ヶ月後(8月15日)、姫路に赴く途上で死去してしまいます。
享年45歳でした。

松平直基は、実際には姫路城に入城していません。

 

26代姫路城主 松平(越前・結城)直矩なおのり (10代姫路藩主)

1648年(慶安元年)8月17日、松平直矩の遺領を継ぎます。

松平直矩は、松平直基の長男ですが、父の急死をうけ、5歳で家督を相続したのです。
が、幼少のため翌年に越後村上藩に国替となってしまいます。

松平直矩は、あの「引っ越し大名」なのです。

のちに、もう一度姫路城主(姫路藩主)に返り咲きます。

 

27代姫路城主 榊原忠次ただつぐ (11代姫路藩主)

1649年(慶安2年)6月9日、松平直矩が越後村上へ移封され、
白河より榊原忠次が姫路(15万石)へ入封します。

榊原忠次は、大須賀忠政(おおすが ただまさ)の長男で、徳川四天王・榊原康政の孫になります。
母が徳川家康の姪であるため、忠次1代に限り終身松平姓を許されています。

1663年(寛文3年)には保科正之(ほしな まさゆき)(2代将軍・徳川秀忠の四男)の推挙により、井伊直孝(いい なおたか)の死後、幕府の老職(大政参与)に迎えられています。

1659年(万治2年)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての一級河川である加古川右岸に「升田堤(ますたつつみ)」という堤防を構築しています。
この堤防は、現在の堤防の基礎ともなっています。

1665年(寛文5年) 死去、享年61歳でした。墓所は姫路市の増位山随願寺にあります。

 

28代姫路城主 榊原政房まさふさ (12代姫路藩主)

1665年(寛文5年)3月29日、榊原忠次が死去し、
5月11日、子・榊原政房が家督を相続します。

 

29代姫路城主 榊原政倫まさみち (13代姫路藩主)

1667年(寛文7年)5月24日、榊原政房が死去(享年27歳)し、
6月19日、嫡男・榊原政倫は、越後村上へ移封されます。

榊原政倫は、父・榊原政房が急死したのに伴い3歳で家督を継ぎましたが、
姫路は幼少の大名には不適と判断され、約1か月の空白を経て、
越後村上藩に転封を命じられたのです。

榊原政倫が、姫路城主になったのか、ならなかったのかは判然としないのですが、
幼少城主は通例、家と城主を継いだうえで他の藩への国替えとなります。
榊原政倫もそのような措置がとられたとみるのが妥当だと思います。

 

30代姫路城主 松平(越前・結城)直矩なおのり (14代姫路藩主)

1667年(寛文7年)8月19日、松平直矩が姫路へ入封(15万石)します。

松平直矩は成人後、再び姫路に復帰することになったのです。
生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、
「引越し大名」とあだ名をつけられました。

1681年(天和1年)6月27日、松平直矩が閉門を命じられています。
1682年(天和2年)2月10日、松平直矩は閉門を解かれ、その後豊後日田へ移封されます。

1695年(元禄8年)松平直矩は死去します。享年54歳でした。

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31代姫路城主 本多忠国ただくに (15代姫路藩主)

1682年(天和2年)2月12日、本多忠国が福島から姫路へ入封(15万石)します。

本多忠国は、陸奥守山藩主・松平頼元の次男で、水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫です。
そして、2代水戸藩主・徳川光圀の甥にあたります。

 

32代姫路城主 本多忠孝ただたか (16代姫路藩主)

1704年(宝永元年)3月21日、本多忠国は死去(享年39歳)し、
1704年(宝永元年)5月10日、本多忠国の三男・本多忠孝が家督を相続します。

そして、5月28日、幼少(7歳)を理由に本多忠孝は越後村上藩へ移封されます。

本多忠孝は、徳川家康の男系の玄孫にあたります。

本多忠孝は越後村上藩に移封されるのですが、村上城に一度も入城しないまま、
1709年(宝永6年)に12歳で死去してしまいます。

 

33代姫路城主 榊原政邦まさくに (17代姫路藩主)

1704年(宝永元年)5月28日、榊原政邦が越後村上藩から姫路へ入封(15万石)します。

榊原政邦は、分家の旗本榊原家の榊原勝直の長男です。
榊原本家の榊原政倫が若くして子のないままに亡くなったので、養嗣子となり、越後村上藩を相続していました。

1716年(正徳6年)には姫路城の北西に位置する男山八幡宮社殿を建て替え新築します。

 

34代姫路城主 榊原政祐まさすけ (18代姫路藩主)

1726年(享保11年)11月14日、榊原政邦が死去(享年52歳)し、
1726年(享保11年)12月25日、榊原政邦の次男・榊原政祐が家督を相続し遺領を継ぎます。

 

35代姫路城主 榊原政岑まさみね (19代姫路藩主)

1732年(享保17年)8月29日、榊原政邦が28歳で死去し、
1732年(享保17年)10月13日、家督は養嗣子の榊原政岑が継ぎます。

旗本・榊原家の榊原勝治の次男として誕生します。
家督を継いでいた兄・榊原勝久の死去を受けて、兄の養子として家督を継いでいたのですが、
1732年(享保17年)8月23日、今度は本家の姫路藩主・榊原政祐の末期養子となって、
8月29日の政祐の死去により、10月13日に宗家を継承することとなったものです。

将棋や三味線・浄瑠璃などに堪能で遊び好きであったことから、風流大名とも好色大名ともいわれているます。
8代将軍・徳川吉宗の倹約令を無視して派手を好み、吉原遊廓の花魁を大名自ら身請けしてしまったことから幕府の怒りを買い、強制隠居の上で蟄居を命じられます。

その後は後見人として政務に励み、1743年(寛保3年)2月19日に死去(享年31歳)しました。

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36代姫路城主 榊原政永まさなが (20代姫路藩主)

1741年(寛保元年)10月13日、榊原政岑の強制隠居のあと、嫡男・榊原政永が跡を継ぎます。
そして、11月、榊原政永は越後高田へ転封を命じられます。

1807年(文化4年)死去、享年73歳でした。

 

37代姫路城主 松平(越前・結城)明矩あきのり (21代姫路藩主)

1741年(寛保元年) 11月1日、榊原氏のあと松平明矩が奥州白河より姫路へ入封(15万石)します。

松平明矩は、白河新田藩主・松平知清の長男で、伯父にあたる松平基知の養子となり、白河藩を相続していました。

松平明矩の墓所は、姫路城の南西の景福寺山にあります。

 

38代姫路城主 松平(越前・結城)朝矩とものり (22代姫路藩主)

1748年(寛延元年)11月17日、松平明矩が死去し、
1748年(寛延元年)12月27日、長男の松平朝矩が遺領を継ぎます。

松平朝矩が11歳で家督を継いだので、幼少を理由に上野前橋藩に転封されます。

 

39代姫路城主 酒井忠恭ただずみ (23代姫路藩主)

1749年(寛延2年)1月15日、松平朝矩の前橋への移封のあと、
酒井忠恭が上野前橋より姫路へ入封します。

これ以後、明治維新まで酒井氏が姫路城主となります。

酒井忠恭は、越前敦賀藩主酒井忠菊の四男です。
前橋藩主となっていた実兄の酒井親本に子がなかったため、その跡を継いでいました。

幕府では大坂城代や老中首座を歴任しました。

 

40代姫路城主 酒井忠以ただざね (24代姫路藩主)

1772年(安永元年)7月13日、酒井忠恭が死去し、
1772年(安永元年)8月27日、酒井忠恭の孫・酒井忠以が遺領を継ぎます。

酒井忠以は、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだのです。

絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、江戸時代の代表的茶人の一人で、出雲国松江藩7代藩主・松平治郷(不昧)と親交を深めました。

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41代姫路城主 酒井忠道ただひろ (25代姫路藩主)

1790年(寛政2年)7月17日、酒井忠以が死去し、
1790年(寛政2年)9月3日、長男・酒井忠道(12歳)が遺領を継ぎます。

酒井忠道は、父・酒井忠以が登用して藩政改革に臨みましたが、藩内の反対派によって改革は失敗し、失脚していた河合道臣(寸翁)を再度登用して藩政改革に臨みます。

1814年(文化11年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、
1837年(天保8年)に61歳で死去しました。

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42代姫路城主 酒井忠実ただみつ (26代姫路藩主)

1814年(文化11年)9月30日、酒井忠道が隠居し、弟・酒井忠実が跡を継ぎます。

酒井忠実は、酒井忠以の次男です。

1835年(天保6年)、20年以上にわたって藩政をとり、57歳で隠居します。
家督は先代忠道の八男・忠学(忠実の甥)に継がせた。隠居後、鷺山と号した。正室の隆姫は、黒田孝高の血筋を引いている。

43代姫路城主 酒井忠学ただのり (27代姫路藩主)

1835年(天保6年)4月27日、酒井忠実が隠居し、
酒井忠学が叔父である酒井忠実の養嗣子となり家督を継ぎます。

酒井忠学は、酒井忠実の兄である酒井忠道の八男です。

酒井忠学の正室は、11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫です。

酒井忠学は37歳で死去し、家督は娘婿で養父忠実の孫(自身の従甥にあたる)の忠宝が継いだ。

44代姫路城主 酒井忠宝ただとみ (28代姫路藩主)

1844年(弘化元年)10月10日、酒井忠学が死去(享年37歳)し、
1844年(弘化元年)12月27日、酒井忠宝が家督を継ぎます。

養父忠実の孫になる酒井忠宝は、酒井忠学の婿養子となり、忠学の死去に伴い家督を継いだのです。

1853年(嘉永6年)、25歳で死去し、跡を従弟で養子の忠顕が継いだ。

45代姫路城主 酒井忠顕ただてる (29代姫路藩主)

1853年(嘉永6年)8月10日、酒井忠宝が死去(享年25歳)し、
1853年(嘉永6年)10月25日、酒井忠顕が遺領を継ぎます。

酒井忠顕は、三河田原藩主・三宅康直の長男です。そして、酒井忠宝の養女文子(酒井忠学の六女で、忠宝の正室喜曽姫の妹)と結婚して養嗣子となり18歳で家督を相続したのです。

1860年(万延元年)、25歳で死去し、養子の忠績が跡を継いだ。なお、明治維新後に忠顕未亡人の文子は一時、酒井家宗家の当主となった。

46代姫路城主 酒井忠績ただしげ (30代姫路藩主)

1860年(万延元年)10月14日、酒井忠顕が25歳で死去し、
1860年(万延元年)12月9日、酒井忠績が遺領を継ぎます。

酒井忠績は、分家の旗本・酒井忠誨の長男として生まれ、酒井忠顕に子がなかったため、その養子となり、家督を相続したのです。

江戸幕府最後の大老です。

1880年(明治13年)11月、終身華族に列する。

1889年(明治22年)5月、永世華族に列し、男爵を授けられた。

1895年(明治28年)11月30日、死去。享年69歳でした。

 

47代姫路城主 酒井忠惇ただとし (31代姫路藩主)

1867年(慶応3年)2月28日、酒井忠績が隠居し、
養子の弟・酒井忠惇に家督を譲ります。

雅楽頭、老中を歴任する。

1868年(慶応4年)2月5日に老中を罷免され、3月7日には官位を剥奪され、入京を禁止されのです。

1907年(明治40年)11月11日に正三位に叙され、同日69歳で死去します。

 

48代姫路城主 酒井忠邦ただくに (32代姫路藩主)

1868年(慶応4年・明治元年)5月20日、酒井忠惇は、隠居謹慎を命じられ、一族の酒井忠邦を養子に迎えて家督を譲ります。

1868年(慶応4年・明治元年)11月、酒井忠邦は、版籍奉還の建白書を提出します。

姫路藩の最後の藩主です。

1869年(明治2年)6月18日、版籍奉還実施により酒井忠邦が姫路藩知事になります。

1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県で免官されると、酒井忠邦は東京へ出て、慶應義塾に入学。

1871年(明治4年)12月にはアメリカへ留学し、4年間滞米したあと帰国。

1879年(明治12年)3月25日、26歳で死去しました。

 

江戸時代には、32人もの城主の交代がありました。
江戸幕府の将軍は15代です。

姫路城の江戸時代の歴代城主は32人もいる。なぜでしょうか?

姫路城内に入ると、天守群だけでなく、数多くの櫓や渡櫓、門、土塀などたくさんの建造物があります。 それぞれの建物や塀の瓦に注目すると、瓦に刻まれたさまざまな家紋があることに気づきます。 池田家の揚羽蝶( ...

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