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歴代姫路城主の中でも異彩を放つ風流大名・榊原政岑。高尾太夫と姫路ゆかたまつり。

姫路城・榊原政岑と高尾太夫

1741年、吉原遊郭は遊女・高尾太夫(たかおだゆう)の身請け話で持ちきりとなっていました。

これは身請けの主が姫路藩当主 ・榊原政岑(さかきばらまさみね)だったためでもありますが、何しろその身請け金が1800両との2500両ともいわれる大金だったからでもあります。
(現在のお金で3億円か?・・とも言われています。)

姫路城は江戸時代だけでも32人もの城主が交代しています。
徳川将軍が15人であったのに対して、その倍以上の人数の城主が交代したことになります。

その歴代姫路城主の中でもひときわ異彩を放つのが、榊原政岑です。
榊原政岑ってどんなお殿様だったのでしょうか?

榊原家は二度姫路城主になっています。

徳川家康の側近として江戸幕府の立ち上げに貢献するなど、徳川四天王と称される榊原康政(やすまさ)は、家康から高く評価されます。

榊原康政の孫・榊原忠次(さかきばらただつぐ)は、
館林(群馬県)から白河(福島県)へ、
白河から姫路藩15万石に栄転します。1649年のことです。

忠次は、歴代姫路城主の中でも名君といわれていて、夢前川(ゆめさきがわ)の改修や加古川の堤防の新設、用水の整備、新田の開発など農業の振興に力を入れました。

また、播磨国総社(姫路市)に大鳥居を寄進したり、増位山随願寺(ずいがんじ)(姫路市)を菩提寺として再建するなど社寺を手厚く保護しました。

1665年に亡くなりますが、その随願寺に残る忠次の墓所は他の墓所の中でも最も立派なものです。

関ケ原後に現在の姫路城と城下町をつくったのが池田輝政(いけだけるまさ)です。
そして、千姫の輿入れの化粧料で西の丸を建造し、姫路城の総仕上げをしたのが本多忠政(ほんだただまさ)だとすると、姫路藩の産業基盤をつくったのは榊原忠次といえるでしょう。

しかし、忠次の死後、家督を継いだ政房(まさふさ)は2年で死去します。

その子政倫(まさとも)がわずか3歳だったため、西国の要である姫路は任せられないと越後村上へ国替えされることになり、一回目の榊原家時代は終わります。
1667年のことです。

榊原家は当主に跡継ぎがなく、養子をとって跡を継がせることが多くありました。

1704年、再び榊原家は越後村上から姫路に戻ってきます。

この時の榊原家6代目当主・政邦(まさくに)も、大名家の本家に跡継ぎがいなかったため、分家の榊原家から迎えられた人物です。
そして、政邦の子、政祐(まさすけ)も跡継ぎのないまま若くして死んでしまいます。

そのため、再び分家の榊原家から本家・大名榊原家を継承することになったのが政岑です。
1732年、政岑18歳のときです。

分家榊原家の次男坊が姫路城主に!

普通、分家の次男として生まれると、兄に息子がいた場合、まず生涯、出番はありません。

この時代、分家の次男坊、三男坊は「厄介」「部屋住み」と呼ばれ、さらに分家するほど財産があれば別ですが、一生兄に食べさせてもらうというきつい立場だったそうです。

わずか1千石の分家の次男として生まれた若者が、一夜明けると15万石の姫路城主になっていたというわけです。
あっという間に大名になったのです。

もともと、6代目当主政邦は、分家榊原家の次男坊である政岑を、自分の養子にして、断絶していた大須賀家を再興させようと考え、大須賀姓を名乗らせ、自分の屋敷に住まわせていたのです。

ところが、政岑の兄が分家榊原家を継いでわずか1年で亡くなったので、急遽、政岑が分家榊原家を継ぐことになりました。

しかし、その翌年、今度は本家である大名榊原家の政邦の子、政祐が重病に陥ったのです。
そこで、分家榊原家を継いだ政岑を大名榊原家に呼び戻し、政祐の養子として継がせることになったのでした。

諌め状(いさめじょう)

その後の政岑についてはさまざまな逸話があります。

政邦、政祐に信頼され重用されていた重臣・太田原儀兵衛が政岑に提出した諌め状(いさめじょう)があるそうです。

政岑が大名榊原家を継いで1年半、儀兵衛は姫路を退きます。
不満があったようです。

いろいろやり取りがあったようですが、政岑からの使いに託されたのが諌め状だったようです。

その諌め状には、非常に財政がひっ迫している時期に、東御屋敷があるにも関わらず、市之橋に新しく御殿をつくるのはいかがなものでしょうか?(市之橋の屋敷とは西屋敷、現在の西御屋敷跡庭園「好古園」にあった御殿です。)

そして、着物の上から非常に華やかな服を羽織って出歩くのはやめてください。
それは、あなたが若いころから悪い所(遊郭)へ行って遊んでいるからではないでしょうか。
しかも、それを藩主になった今もやめていない。などと政岑を諌めています。

政岑は、藩主就任から9年後、幕府から隠居謹慎を命じられていますが、高尾太夫の身請けの一件だけが隠居謹慎に追い込んだのではなく、藩主就任当初からの悪い行動が付きまとっていたともいわれています。

政岑は早くに正室を亡くました。

政岑は、白河藩主・松平基知(もとちか)の養女を正室にめとり、まもなく、女の子が生まれます。
しかし、産後の肥立ちが悪く、出産後まもなく、正室は突然に亡くなってしまったのです。

日頃は、能楽や狂言を楽しみ、賑やかな芸事が好きだった政岑であっただけに、その落ち込みようは、周囲も心配するほどでした。
お抱えの能楽者の一人が、何とか、気分を変えてさしあげようと、政岑を吉原に誘います。
ここから高尾の身請けにつながっていったという話もあるようです。

政岑には正室のほかに3人の側室がいました。
一人目も二人目も京都の遊女でした。
そして三人目が高尾だとされています。
つまり、政岑に3人の側室は高尾を含めてすべて遊女の出身だったということです。

吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請け

政岑は、8代将軍徳川吉宗の倹約令を無視し、派手な服装で江戸城大手門の警備をしたり、吉原遊郭で派手に遊興にふけっていました。
そして、1741年春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けしたのです。

さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれています。

高尾太夫

太夫(だゆう)とは、花魁(おいらん)ともいい、大名とか豪商相手の最高の遊女の位です。
美しさはもちろん、知識や教養も身につけていました。

太夫になるため、書道や華道や茶道はもちろんのこと、碁や将棋、三味線や琴、和歌や俳諧(はいかい)などにいたるまで習い事を身に付けるため、人並み以上に努力が求められたといいます。

この高尾太夫という名前は、京都島原の吉野太夫、大坂新町の夕霧太夫とともに、三名妓と呼ばれる吉原は三浦屋の名跡です。
吉原・三浦屋の高尾は、その時々の、トップが名乗る名前です。
ですから、何人もの「高尾太夫」がいるわけです。

政岑が恋をしたのは第10代高尾太夫とされてますが、6代説も7代説もあります。

将軍・吉宗のお怒り~越後高田へ

政岑は高尾を、しばらくは江戸屋敷に囲ってはいたものの、いろいろと巷のうわさが盛り上がってすさまじく、周囲の目をそらすために姫路に連れて帰ります。

そして、姫路城の西御屋敷(市之橋の屋敷)に住まわせ、「西の方」と呼ばせたといいます。

しかし、そもそも遊び放題など派手な政岑の振る舞いを苦々しく思っていた幕府も、高尾の身請けきっかけに怒りを爆発させます。

「遊興三昧、ましてや遊女を側女に置くとは、何事ぞ!」
1741年10月に強制隠居のうえ蟄居(ちっきょ)つまり謹慎処分です。

家督は、息子の政永が継ぐことを許されますが、越後(新潟県)高田への転封となってしまったのです。
このときに政岑27歳。

本来なら、お家断絶、改易処分となるところが、榊原家がもともと徳川四天王の名家であったことから、ゆかりの徳川譜代の重臣たちの嘆願説得で、何とか転封ですんだのだという話もあります。

翌1742年4月政岑も越後高田へ移りました。
江戸から越後高田に政岑が移るとき、罪人用の青竹で編んだ駕籠に乗せられていったと伝えられています。

政岑は29歳という若さで、高尾に看取られこの世を去ってしまうのです。

正岑は、越後高田でで高尾と仲むつまじく暮らしました。
が、わずか10カ月後の1743年2月19日、政岑は29歳という若さで、高尾に看取られこの世を去ってしまうのです。

正岑の死後、高尾は仏門に入り、蓮昌院と号して正岑の菩提を弔ったといいます。
江戸に戻った高尾は、現在の南池袋にある榊原家菩提寺の本立寺(ほんりゅうじ)に居を定めます。

高尾は、60代後半まで長生きし、長きにわたって尼になってまで自分の愛を貫き、政岑の心に応えたのかもしれません。

最後まで、榊原家の人として大切に処遇されたということです。
その高尾の墓は、榊原家代々の正室の墓と並んで建っています。
いまでも芸能関係の方がお参りに来るそうです。

政岑の残した「ゆかた祭り」

榊原政岑は、遊興三昧、はてには、吉原遊廓の花魁(おいらん)を身請けしたり……女におぼれ、幕府の怒りを買い、最終的に強制隠居の上、蟄居(ちっきょ)を命じられたお殿様でしたが、町人からは「粋な殿様」として親しまれていました。

それは姫路市内の長壁(おさかべ)神社に伝わる「ゆかた祭り」は政岑の粋な計らいで実現したものです。

姫路城
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