世界遺産に日本で最初に登録された姫路城は、約600年の歴史をもちます。
その長い歴史のなかで、姫路城の城主は替わっていきます。
この記事では、代々替わっていった姫路城の城主をまとめています。
鎌倉~戦国時代篇です。
0 赤松則村 (のりむら)(法名 円心)
1333年(元弘3年) 1月21日、赤松則村(法名 円心)が挙兵し、
京に兵を進める途中、姫山に城柵をめぐらして砦(のようなもの)を築きます。
(赤松氏の本拠地は播磨佐用庄です。)
まだ、この砦(のようなもの)は、城とは言えないものです。(姫路城ではないのです。)
赤松則村のこの挙兵は、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した「元弘の乱」において、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう)の令旨を受けて反幕府勢力としての挙兵です。
この年1333年に鎌倉幕府は滅亡します。
1333年は、鎌倉時代と呼ばれる最後の年ということになります。
西洋ではこの頃イタリア・ルネサンスの時代です。
1代姫路城主 赤松貞範 (さだのり)
1346年(貞和2年(北朝)正平元年(南朝)) 、赤松則村の次男・赤松貞範が、姫山に400㎡ほどの小さな城(みたいなもの)を築きました。(播磨鑑)
文献には姫路城ではなく、姫山の城という名(姫山城)で出てくるようですが、
これが姫路城のはじまりとされています。
赤松家は、この南北朝時代は北朝側について活躍し、
後に室町時代前期を代表する名門大名になります。
1336年(延元元年)室町幕府成立 足利尊氏、建武式目制定
1338年(延元3年) 足利尊氏、征夷大将軍になる
2代姫路城主 小寺頼季 (よりすえ)
1349年(貞和5年(北朝)正平4年(南朝))、赤松貞範が新たに庄山城(姫路市飾東町庄)を築城して本拠地を移します。
代わって小寺頼季が城代となり、姫路城(姫山城)を守ることになります。
以後は小寺氏代々が城代を務めるのです。
小寺家は赤松家一族の武将です。
3代姫路城主 小寺景治 (かげはる)
1352年(文和元年)、小寺頼季が死去し、子の小寺景治が遺領を継ぎます。
4代姫路城主 小寺景重 (かげしげ)
1357年(延文2年)、小寺景治は討ち死します。そして、小寺景重が遺領を継ぎます。
(1358年(延文3年)説あり)
5代姫路城主 小寺職治 (もとはる)
1403年(応永10年)、小寺景重が死去し、小寺職治が遺領を継ぎます。
6代姫路城主 山名持豊 (もちとよ)
1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱(かきつのらん)が起こります。
播磨・備前・美作の3国の守護だった赤松満祐父子が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、
領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれます。(自害)
1441年(嘉吉元年)6月24日、小寺職治が城山城(きのやまじょう)(兵庫県たつの市の亀山(きのやま)(標高458m)の山頂にある山城)にて自害します。
1441年(嘉吉元年)9月17日、山名持豊が播磨国を与えられ(播磨守護)、姫路へ入封。
実際には山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になります。
7代姫路城主 赤松政則 (まさのり)
1467年(応仁元年)、 応仁の乱。
赤松政則は、赤松家の再興を期し東軍側につき、姫路城を陥落させ、旧領であった播磨を回復します。
赤松政則は、赤松満祐の弟・義雅の孫にあたります。
嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興し、1代で赤松家の全盛期を築き上げたとされています。
この頃に姫路城は拡張され本丸、鶴見丸などが築かれます。
後に一族の小寺氏、その重臣の黒田氏が城をあずかることになります。
8代姫路城主 小寺豊職 (とよもと)
1469年(文明元年)、赤松政則が置塩城(おきしおじょう)(姫路市夢前町宮置)に本拠地を移し、重臣・小寺豊職が城代になります。
(1470年(文明2年)の説あり。)
9代姫路城主 小寺政隆 (まさたか)
1491年(延徳3年)、小寺豊職が死去し、
豊職の子・小寺政隆が遺領を継ぎます。
1488年(長享2年) 加賀の一向一揆(1488-1580)
1493年コロンブス、北米に到達。
10代姫路城主 小寺則職 (のりもと)
1519年(永正16年)1月、小寺政隆が御着(ごちゃく)城(姫路市御国野町御着)を築いて移り、
子の小寺則職が姫路城の城代になります。
11代姫路城主 黒田重隆 (しげたか)
1545年(天文14年)、 小寺則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を守らせます。
1546年(天文15年)、黒田孝高(官兵衛)生まれる。
1543年(天文12年) 鉄砲伝来(ポルトガル人種子島に漂着)
12代姫路城主 黒田職隆 (もとたか)
1564年(永禄7年)2月6日、黒田重隆が死去し、子の黒田職隆が遺領を継ぎます。
黒田重隆・職隆父子の時代に、姫路城は、現在よりも小規模ではありますが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした城郭に拡張されています。
1560年(永禄3年) 織田信長、今川義元を討つ(桶狭間の戦い)
13代姫路城主 黒田孝高 (よしたか)
1567年(永禄10年) 、黒田職隆が隠居し、子・黒田孝高が家督を継ぎます。
黒田孝高はいわゆる黒田官兵衛のことです。
1570年(元亀元年) 信長、浅井、朝倉両氏を破る(姉川の戦い)
14代姫路城主 羽柴秀吉 (ひでよし)
1580年(天正8年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、織田信長と会い臣従関係となっていた黒田孝高は姫路城を秀吉に献上し、自らは姫路城の南西に位置する国府山(こうやま)城に移ります。
秀吉は中国地方攻略の拠点として姫路城を整備し、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名します。
1581年(天正9年)この年に三層の天守を築いたとされています。
また、城下町を築き現在の姫路城及び姫路の街の基礎を作ります。
その後豊臣秀吉が死去する1598年まで羽柴秀長、木下家定と秀吉縁の人物が姫路を治めることになります。
1582年(天正10年) 本能寺の変。 秀吉、明智光秀を破る(山崎の戦い)
15代姫路城主 羽柴秀長 (ひでなが)
1583年(天正11年)11月、 羽柴秀吉は大坂城へ移るに際し弟の羽柴秀長に姫路城を与えます。
16代姫路城主 木下家定 (いえさだ)
1585年(天正13年) 羽柴秀長が大和郡山へと転封となったため、替わって木下家定が城主となります。
木下家定は、秀吉の正室であった北政所(高台院)の兄(弟とする説もある)です。
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その後、関ヶ原の戦いの後、池田輝政が三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)から入城し、大改修して五層の天守を築きます。
現在に残る姫路城です。
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