世界遺産国宝姫路城。
今残る姫路城は誰が建てたのでしょう?
室町時代後期から戦乱の戦国時代に、お城を造る技術は進化し発達していきます。
そして、戦国時代が終わり軍事要塞としての城郭の役割は変化します。
その時代までに蓄積され日本独自の城郭建築技術をもって、比類なき美しさを持つ姫路城は築城されました。
今に残る姫路城を約400年前に建てたのは、池田輝政(いけだ てるまさ)です。
あまり有名ではないのですが、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と変遷する天下人の元、戦国時代を駆け抜けたこの池田輝政という人物はどんな人だったのでしょうか?
池田輝政のその生涯を調べてみました。
秀吉が建てた姫路城
今の姫路城の前に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が建てた姫路城がありました。
中国地方を拠点とする毛利氏を討つために、羽柴秀吉は播磨(現・兵庫県南西部)入ります。
その秀吉に、秀吉の配下となった天才軍師・黒田官兵衛は居城としていた姫路城を、戦略拠点として「無償提供」します。
それを受けて秀吉は、新たに姫路城を築き直しました。
板張りの黒い城で、三層の天守を持つ城です。
池田家の二男坊
尾張(現・愛知県)・清州(きよす)城で生まれたとされる輝政は、池田家の二男坊です。
幼名・古新(こしん)。
成人して最初は照政。
通称 三左衛門(さんざえもん)。
池田輝政が造った運河が今も姫路市に残っています。
「三左衛門堀(さんざえもんぼり)」です。
輝政の父・恒興(つねおき)は、織田信長の重臣で、摂津(現・大阪府)10万石でした。
石山本願寺跡の大坂城にいた1582年、「本能寺の変」が起きます。
恒興は「中国大返し」を敢行した羽柴秀吉に仕え、明智光秀討伐で功を挙げます。
この時、19歳になった輝政は、秀吉に認められ、のちには羽柴姓を名乗ることになります。
秀吉らが信長亡き後の後継者と領地の配分を話し合った「清州会議」で、父・恒興は大坂、尼崎、兵庫で12万石となります。
その結果、兄・元助(もとすけ)が伊丹城主、輝政は尼崎城主となりました。
1583年、兄・元助と輝政は秀吉側として、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)(現・滋賀県長浜市)に参戦します。
この戦いは織田勢力を二分した秀吉と柴田勝家の戦いです。
激しい戦いとなったのですが、これに勝利した秀吉は亡き信長が築き上げた権力と体制を継承することになりました。
そして、父・恒興に美濃の大半が与えられ大垣城主となると、兄・元助は岐阜城主、輝政は池尻城主となります。
運命の小牧・長久手の合戦
賤ヶ岳の戦いの翌年1584年、運命の小牧・長久手の合戦を迎えます。
この合戦は、秀吉と徳川家康の対立から起きました。
結果は引き分けですが、途中、尾張北部の長久手で、秀吉側の池田・森軍を家康が撃破します。
父・恒興と兄・元助が討ち死にしてしまいます。
兄の嫡子由之(よしゆき)はこのときまだ8歳だったため、秀吉の計らいで輝政が池田の家督を継ぐことになります。
のちに輝政は、由之の成長後、播磨国佐用郡周辺に2万2000石を与えます。
由之は、平福に城下町を構え利神城を改修します。
そして、輝政は美濃大垣城主、次いで岐阜城主となり岐阜10万石という破格の処遇でありました。
何もなければ兄の家臣か小大名として終えていたかもしれない輝政の転機だったのです。
1584年、正室・糸姫との間に長男・利隆が誕生します。
1585年の秀吉の紀州(現・和歌山県)雑賀攻め、
1585年8月の越中征伐(富山の役)(佐々成政攻め)、
さらに1586年7月から1587年4月にかけて行われた九州征伐(九州平定)にも参加しています。
秀吉の主な合戦のほとんどに従軍していることになります。
1590年の小田原征伐、及び陸奥平定後、輝政に対する秀吉の評価は高く、
関東に移った家康の西進を防ぐため、さらに5万石を加増され、
東海道の要衝、三河吉田(豊橋)を任されます。
秀吉の朝鮮出兵では、秀吉の甥・豊臣秀次に仕えて日本に留まり、兵糧米輸送などの任務に携わりました。
家康の二女と結婚
1694年、秀吉の仲介で「仇敵・家康」の二女・督姫(とくひめ)と結婚します。
正室であった糸姫ですが、長男・利隆を出産後体調を崩し、実家に帰ったとされています。
2人の夫婦仲は良く、忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫ら5男2女が生まれます。
督姫は、北条家に嫁いでいましたが、小田原落城の後、江戸に帰っていたのを、秀吉が政治利用したのです。
家康懐柔を目的に二人を結びつけました。
これが、のちに輝政と家康関係を、生涯にわたり強固なものにしたのです。
結婚の際し、徳川屋敷を訪れた輝政は、長久手合戦において父・恒興を討った永井直勝を呼び出し、父の最期の様子を聞いています。
その永井の家禄が5千石だと知ると、
「父の首はたった5千石の値打ちか」と不機嫌になったとされ、
家康に頼んで永井を1万石にしたと言う逸話があります。
関ケ原
1598年、秀吉が没すると、輝政は家康に接近します。
1600年の関ケ原の時には東軍(徳川方)に属します。
そして、前哨戦では、岐阜城を落とし、東軍有利の状況を作り上げます。
この岐阜城では、福島正則とともに攻略を競いました。
岐阜城はかつて輝政が城主であった城であり、正則よりもよく知っていたため一番乗りを果たしますが、惜しげもなく正則にその功名は与えたといいます。
本戦では、殿(しんがり)の役目を全うし、抜群の動きを見せました。
西国将軍
関ケ原の合戦での論考行賞で、大国・播磨52万石を得ます。
これは、「沈毅、寡欲にして大略あり」(『名将言行録』)といわれた輝政の人柄を信頼した家康が、大坂の豊臣勢、中国地方や九州の諸大名へ睨みを利かせるためでした。
名目の石高より2割増しとも言われる検地での増加分のほか、
実弟の長吉(因幡(鳥取)6万石)、
家康の孫になる二男の忠継(備前(岡山)28万石)、
三男の忠雄(ただかつ)(淡路6万石)
も後にそれぞれ領地を得て、池田輝政一族で100万石の大大名となりました。
「姫路宰相100万石」とも称されました。
この100万石の力をもって築城したのが、現在の姫路城です。
1601年から1609年にかけて秀吉の建てた姫路城を現在の姿へと大規模改修をします。
「美しさ」を前面に出して戦国時代の終焉という時代の大転換を演出し、同時に大坂の豊臣勢と西国各藩に目を光らせる。
この江戸幕府最重要任務に「西国将軍」との異称もつきました。
また、姫路城の支城として明石城、赤穂城、三木城、利神城(りかんじょう、兵庫県佐用町)、龍野城、高砂城も整備し、
さらには加古川の堤防工事も進め、城下町の整備などで功績を残しています。
さいごに
思わぬ形での家督相続や、家康の娘婿という「運」に恵まれたと言われもしますが、そこには、やはり実力もあったからそうなったと思います。
1613年1月25日、戦国の世を駆け抜けてきた輝政は姫路城内で没しました。享年50。
なお、家督は長男の利隆が継ぎました。
この後、利隆が没すると輝政の孫・光政が継ぐ(第3代姫路藩主)のですが、
光政が幼少であったため、鳥取に国替えされます。
鳥取に移った光政の正室として嫁いだのが、千姫の娘・勝姫です。
勝姫は、光政のあと第4代姫路藩主となった本多忠政の長男・本多忠刻と家康の孫娘・千姫の間に姫路城で生まれています。
後に叔父の岡山藩主池田忠雄が死去し、忠雄の嫡男光仲(光政の従弟)が3歳の幼少であったため岡山に移ることになります。
その子孫は岡山のまま幕末まで続いていくことになります。
光政は、水戸藩主・徳川光圀や会津藩主・保科正之と並び称される、近世初期屈指の名君といわれています。
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