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【2022大河】小栗旬主演「鎌倉殿の13人」の北条義時ってどんな人? 

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2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で小栗旬が演じるのは主人公「北条義時(ほうじょう よしとき)」です。

鎌倉幕府2代執権、というより、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)の妻・北条政子(ほうじょうまさこ)の弟と言った方が分かりやすいでしょうか。

源頼朝が亡くなった後、後を継いだ2代将軍の頼家(よりいえ)、3代将軍の実朝(さねとも)を支え、頼朝が実現しようとした鎌倉幕府の政治基盤を守っていた人物です。

そのためには時に冷酷に振る舞わなくてはいけませんでした。
後の世の数ある義時の評価の中には「権力のために他人を蹴落とす悪人」と言われる事もあります。

どんな人だったのでしょうか?

義時、伊豆に生まれる。

義時は、伊豆地方の豪族・北条時政(ときまさ)の次男として、平安時代の末期である1163年に、伊豆に生まれました。

母は北条時政の正室である伊東祐親(いとう すけちか)の娘です。
幼名は「江間(えま)小四郎(こしろう)」または「北条小四郎」といいました。

兄に時政の嫡男・北条宗時(むねとき)、姉に北条政子(まさこ)がおり、弟に北条時房(ときふさ)、北条政範(まさのり)、妹に阿波局(あわのつぼね)、北条時子(ときこ)などがいます。

姉の北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の正室です。

平治の乱(へいじのらん)

1159年(平治元年)、後白河上皇派の信西(しんぜい)と二条天皇派の藤原信頼(ふじわら の のぶより)が対立する中、反信西派と頼朝の父・源義朝(みなもと の よしとも)が結び付いた平治の乱(へいじのらん)が発生します。

このとき、後白河上皇方についた平清盛(たいらのきよもり)は、源義朝を破り、反信西派を一掃して、武家政権樹立の基礎を築きあげます。

敗れた源義朝は尾張国野間に逃れた後、家臣の裏切りに遭って殺害されてしまうのです。

この平治の乱で初陣を果たした頼朝でしたが、敗れた頼朝は乱後、伊豆国の蛭ヶ小島へ流されます。
この時、頼朝は14歳。

源頼朝と義時の姉・北条政子

義時が生まれた時、頼朝は17歳になっていました。

その伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)で生活していた頼朝には、
頼朝の伊豆下向時の供人であった安達盛長(あだちもりなが)、
もともと平氏方であった武蔵国の武将・河越重頼(かわごえ しげより)、伊東祐親の次男・伊東祐清(すけきよ)、
平治の乱で源義朝に従い平氏と戦った佐々木 秀義(ささき ひでよし)の四兄弟・佐々木定綱(さだつな)、佐々木経高(つねたか)、佐々木盛綱(もりつな)、佐々木高綱(たかつな)らが従っていました。

もともと平氏の流れをくむ北条時政は、当初、流刑の身である頼朝を監視する役目を負っていたのですが、時政の長女の北条政子が頼朝と恋仲になってしまいます。

政子以外にも、頼朝は多くの女性との問題が持ち上がっているようです。

1177年頃、義時が14~15歳の頃です。
最初は、反対した父・時政でしたが、結局は認めて、頼朝(31歳)と政子(21歳)は結婚します。

1179年、罪によって伊豆に流された山木兼隆(やまき かねたか)が、伊豆の最高権力者と言える平時兼(たいらの ときかね)と親しかったことから、山木兼隆が伊豆の目代(もくだい=国主にかわって国を治める人)に任命されて勢力を強めていました。

この山木氏の台頭に危機感を抱いたのは、北条氏など他の伊豆の豪族たちでした。

以仁王の乱、源頼政の挙兵

1180年に、平清盛によって幽閉された後白河天皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)が、平氏打倒のために挙兵します。

同時に以仁王は、源義仲(みなもと の よしなか)(木曾義仲(きそよしなか)の名でも知られる。頼朝とは従兄弟。)など各地の源氏に令旨(皇太子の命令を伝える文書)を発し、伊豆の頼朝も受け取ります。

この平氏打倒の計画は、準備不足のために早々に露見してしまい、以仁王と源頼政(みなもと の よりまさ)(平氏政権下で源氏の長老として中央政界にいた)は宇治平等院の戦いで敗死、早々に鎮圧されてしまうのです。

しかしこの以仁王の乱、源頼政の挙兵をきっかけに全国各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こります。

1180年から1185年にかけての6年間にわたる大規模な内乱である「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」の始まりです。

 

石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)

頼朝は、当初、動かず状況を静観していました。
しかし、動かずとも平氏から討伐を受ける可能性も出たことから、頼朝は挙兵を決意します。
そして、関東の豪族らに協力を呼びかけます。

こうして、工藤茂光(くどう しげみつ)、土肥実平(どいさねひら)、岡崎義実(おかざき よしざね)、天野遠景(あまの とおかげ)、佐々木盛綱、加藤景廉(かとう かげかど)、堀親家(ほり ちかいえ)らが源頼朝に協力することになります。

時政も嫡男・北条宗時(ほうじょう むねとき)、そして次男の義時と共に、山木兼隆から伊豆の実権を回復するべく参加するのです。

1180年(治承4年)8月、頼朝は挙兵します。韮山(にらやま)にある山本兼隆の屋敷を襲撃し、討ち取りました。

その後、頼朝らは、味方を約束した三浦義明(みうら よしあき)・三浦義澄(みうら よしずみ)らと合流するため、相模・土肥郷(湯河原)に向かいます。

ところが、頼朝の挙兵を鎮圧するべく、伊豆に向かってきた平氏勢の大庭景親(おおば かげちか)、伊東祐親(いとう すけちか)らと、戦になります。
「石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)」です。

この合戦で、頼朝軍は大敗し、壊滅的な打撃を受け、敗走します。

北条父子は時政・義時と兄・宗時の二手に分かれて逃げますが、宗時は、伊東祐親の軍勢に包囲されて、小平井久重に射られて討死してしまいます。

頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国(千葉県房総半島の南端)に脱出します。

時政と義時も別ルートで安房に脱出し、現地で頼朝らと合流しました。

富士川の戦い(ふじかわのたたかい)

1180年(治承4年)9月、態勢を立て直し、劣勢の挽回が模索される中、頼朝の密命を受けて父・時政と義時は、甲斐(山梨県)の源氏である武田信義(たけだ のぶよし)・一条忠頼(いちじょう ただより)に接触します。
頼朝の思いを伝え、支援を得るためです。

10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻します。
この時、義時は18歳です。
甲斐源氏との連携を成功させた時政は頼朝から報償を与えられたということです。

そして、頼朝は上総広常(かずさ ひろつね)と千葉常胤(ちば つねたね)らの加勢により武蔵に入ると、
更に足立遠元(あだち とおもと)、葛西清重(かさい きよしげ)、畠山重忠(はたけやま しげただ)、河越重頼(かわごえ しげより)、江戸重長(えど しげなが)など、坂東(東国)武者が加わり大軍勢となって鎌倉入りを果たしました。

1180年(治承4)10月20日、頼朝討伐のために京都から東進した平清盛の孫・平維盛(たいら の これもり)を大将とする平氏勢と頼朝は、富士川下流にあたる岸(静岡県富士市)で合戦となります。
この富士川の戦い(ふじかわのたたかい)で、頼朝らの源氏が大勝利を収めたのです

鎌倉幕府を開く

10月に鎌倉入りして拠点を鎌倉の大倉に定め、大庭景義(おおば かげよし)を担当として新たな館の建設が行われます。

そして、政治を本格化させ、和田義盛(わだ よしもり)を侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう)に任命します。

侍所は後の鎌倉幕府で中央機関として、御家人を組織し統制するとともに軍事と警察を担うこととなります。
別当とは組織のトップ、侍所の長官のことです。

12月12日、頼朝は新造の大倉亭(大倉御所)に移る儀式「移徙(いと)の儀」を行い、義時も時政や他の御家人と共に列しています。

1181年(養和元年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11人に選ばれます。
この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「家子(いえこ、いえのこ)」と呼ばれて門葉(もんよう)(源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけらます。義時はその中でも「家子の専一」、つまり親衛隊長とでもいうべき側近の地位を与えられてます。

北条政子の嫉妬・牧の方の告げ口

1182年(寿永元年)11月、事件は起きます。
頼朝は伊豆にいたころからの愛妾・亀の前(かめのまえ)を伏見広綱(ふしみ ひろつな)の屋敷に置いて寵愛していました。
この事を父・時政の後妻の牧の方(まきのかた)から知らされた北条政子は激怒します。
そして、政子が、牧の方の父・牧宗親(まき むねちか)に命じて伏見広綱の屋敷を破壊するという事件がおきました。

怒った頼朝は牧宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻(もとどり)(髪を頭上に束ねた部分)を切ってしまいました。
武士にとって髻を切られるということは最大の恥辱です。

これを知った時政は舅(しゅうと)の牧宗親への仕打ちに怒り、一時的に一族を率いて伊豆へ引き上げてしまいます。

この時、義時は父・時政に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛されたということです。

北条本家の嫡男

石橋山の戦い(1180年(治承4年))で亡くなった時政の嫡男の宗時に代わって義時が嫡子になったとされますが、義時は、北条姓ではなく所領とした江間の姓で記される事が多く、分家の江間家の初代で、北条の嫡男とはされなかったようです。

父・時政は、後妻の正室である牧の方(まきのかた)を母として、1189年(文治5年)に生まれた異母弟の北条政範(まさのり)を将来の嫡子に考えていたのです。

この頃すでに父・時政は、後妻(正室)の牧の方の言われるままであったようですし、牧の方の我が儘なふるまいに、義時は嫌気がさしていたのではないでしょうか。

この牧の方と先妻の子どもである北条政子や義時姉弟との確執が生まれていきます。

義時の長男・北条泰時(やすとき)

1183年(寿永2年)、義時は、加地信実(かじ のぶざね)(佐々木盛綱の嫡男)の娘とされる阿波局(あわのつぼね)との間に、長男・北条泰時(やすとき)を設けています。

源平合戦

1184年(元暦元年)1月、頼朝の異母弟・源範頼(みなもと の のりより)に同じく源義経(みなもとのよしつね)も加わった頼朝軍は、平氏との戦いに勝利を続けます。

前年7月に平氏一門を都から追い落とし、大軍を率いて入京した頼朝の従兄・木曽義仲(きそよしなか)も討ちます。

1184年(元暦元年)2月には一ノ谷の戦いで平氏に勝利を収めます。

1184年(元暦元年)8月8日、再び源範頼が大将の西国追討使として鎌倉を出立しています。
従わせた家人は義時、足利義兼(あしかが よしかね)、千葉常胤(ちば つねたね)、三浦義澄(みうら よしずみ)、結城朝光(ゆうき ともみつ)、比企能員(ひきよしかず)、和田義盛(わだ よしもり)、天野遠景(あまの とおかげ)らです。

 

鎌倉幕府の体制整備

その間、10月6日、公文所(くもんじょ)の別当に大江広元(おおえひろもと)が就任しており、着々と鎌倉幕府も体制が整備されています。
大江広元はもともと朝廷に仕える下級貴族(官人)でしたが、鎌倉に下って頼朝の側近となっていました。

公文所は後に政所(まんどころ)と名を改め、鎌倉幕府における政務と財政を司ることとなります。

20日には訴訟を司る問注所(もんちゅうじょ)を開き、三善康信(みよし の やすのぶ)を執事に就任しています。
三善康信はもともと公家で、母親は頼朝の乳母の妹です。
伊豆に流されていた頼朝に月に三度の使いを送り、京都の情勢を伝えていた人物です。
問注所の長官のみを「執事」と呼び、政所、侍所の「別当」と呼び方が違っています。

 

源平合戦~平氏滅亡・奥州合戦

1185年2月10日、源範頼らは義経と合流し、讃岐国屋島に向けて出陣。
1185年2月19日、屋島の戦いで平氏を海上へと追いやります。
1185年2月26日、九州の武士から兵糧と船を得た源範頼は、周防国から豊後国へと渡ります。
1185年3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。

義時は、この源範頼率いる平氏追討軍に属して戦っています。
葦屋浦(あしやうら)の戦い(1185年(文治元年)2月1日、筑前国葦屋浦)では平氏方の軍相手に功績を挙げています。

1189年(文治5年)7月、義時は、義経が奥州藤原氏に討たれた後に、頼朝が平泉の藤原泰衡への討伐軍を起こした奥州合戦にも参加しています。

鎌倉殿、征夷大将軍・源頼朝

1190年(建久元年)に、頼朝が後白河法皇との折衝のため上洛した際に、義時は、頼朝にお供する右近衛大将拝賀の随兵7人のうちの1人に選ばれ、露払いの役をしています。

1192年(建久3年)7月12日、即位した後鳥羽天皇によって頼朝が「征夷大将軍」となり「鎌倉殿」と呼ばれました。

義時の正室・姫の前

その年1192年9月25日、比企朝宗(ひき ともむね)の娘である姫の前(ひめのまい)が、義時の正室となっています。

1193年に次男・北条朝時(ともとき)、
1198年には三男・北条重時(しげとき)が産まれています。

頼朝の乳母は比企尼(ひきのあま)であり、その一族が姫の前と言う事になります。
この姫の前は、頼朝の大倉御所に勤める女官(女房)だったそうで、『吾妻鏡』でも大変美しく、並ぶ者のない権勢の女房であったと明記されています。
また、頼朝が2人のあいだを取り持ち「絶対に離縁しない」という起請文を書かせたともされています。

次男・北条朝時は正室との第一子で嫡男ということになります。
義時は21歳の時(1183年(寿永2年))に阿波局(あわのつぼね)との間に長男・泰時をもうけていましたが庶子(正室の子ではない子ども)であったのです。

頼朝死す

1198年12月27日、頼朝は完成した相模川の橋からの帰路で、体調を崩して落馬したともされ、
1199年(正治元年)1月13日に死去しました。享年53歳でした。

頼朝存命中はそれほど表立つ事はなかったのですが、頼朝死後に鎌倉幕府内の権力闘争が激化します。

鎌倉幕府2代将軍 源頼家

頼朝の死をうけて、鎌倉幕府2代将軍には、北条政子の子である嫡男の源頼家(みなもと の よりいえ)が就任することになります。

1199年(建久10年)1月20日付けで、頼家は左中将となり、ついで
1199年(建久10年)1月26日付けで家督を相続し、鎌倉幕府第2代将軍(第2代鎌倉殿)となるのでした。

まだ、18歳でした。

 

13人の合議制・鎌倉殿の13人

1199年(建久10年)4月、急な政権交代でもあったことから、頼家はまだ若く、情勢が不安視され、これを支えるという名目で、有力御家人による「13人の合議制」が敷かれることになります。

義時もこのとき、将軍・頼家を補佐する「13人の合議制」の御家人のひとりに選ばれています。

「13人の合議制」鎌倉殿の13人のメンバーは下記のとおりです。
最初に、幕府創設の要ともいえるメンバー。
大江広元
三善康信
中原親能
二階堂行政
特に大江広元は源氏将軍三代に渡って仕え、官位も御家人筆頭の正五位という重鎮でした。

次の4人もまた、幕府の草創期に活躍した人々です。
足立遠元
安達盛長
八田知家
三浦義澄
1138年(保延四年)生まれの父・時政と同世代か、ややずれるくらいの年代の人たちです。

次の4人はこの合議制ができた後、義時と確執ができていきます。
梶原景時
比企能員
和田義盛
北条時政

そして義時です。
北条義時

13人の合議制への反発

「13人の合議制」により、将軍・頼家は、直接争いごとの裁きをくだすことができなくなりました。

「13人の合議制」を敷かれたことに反発した将軍・頼家は、小笠原長経(おがさわら ながつね)、比企能員の子の比企宗員(ひき むねかず)と比企時員(ひき ときかず)、中野能成(なかの よしなり)ら若い側近5人以外には自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出します。

やがて、頼家がこれらの側近や乳母の一族である比企氏を他より重用し、今までのやり方を無視した独裁的な行動が目立つようになります。

梶原景時の変

1199年(建久10年)10月、「13人の合議制」が敷かれてから半年、侍所別当の梶原景時(かじわら かげとき)に反発する御家人たち66名による景時糾弾の連判状が頼家に提出されます。

梶原景時は、頼朝の代から側近として重用され、頼朝の死後、頼家の元でも継続して権力を振るっていました。

もともと、1180年(治承4年)8月、梶原景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向い、石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破ったのですが、敗走する頼朝を救ったことから重用され、幕府を開いてからもその実力が認められ頼朝にとって、なくてはならない存在であったようです。
和田義盛に代わって侍所の別当にも任ぜられています。

一方、梶原景時の讒言(事実を曲げて陥れようとする悪口)によって源義経や多くの御家人が失脚したされていることから、御家人の間では恨まれていたところもあったようです。
これは、梶原景時が厳格な性格であり、侍所という役所で御家人の統率や警察の仕事という職務を忠実に果たしていたことが、他の御家人らすると煙たい存在であったと思われます。

1199年(建久10年)10月25日、鎌倉御所内でのことです。
結城朝光(ゆうき ともみつ)が頼朝を偲んで、
「忠臣は二君に仕えずと申すが・・・頼朝公が亡くなられたときに出家をとどめられたことを大変後悔している・・・」
と他の御家人に語ります。
それを聞いた、梶原景時は、
10月26日に将軍・頼家に対して結城朝光は謀反をたくらんでいるという讒言を行います。
10月27日、梶原景時の頼家への讒言を聞いていた御所の女房・阿波局(あわのつぼね)は、結城朝光に
「結城殿が謀反を企てていると頼家様に讒言しました。このままではあなたは殺されてしまうかもしれません」と伝えます。

そして、結城朝光は三浦義村に相談します。
話は他の御家人に伝わり、今や権力も強い梶原景時が結城朝光を殺害しようとしていると聞いた御家人らは怒り、三浦義村、和田義盛ら66名によって、梶原景時弾劾の連判状を将軍・頼家に提出することになったのです。

将軍・頼家は梶原景時を呼んで、連判状のことを問い詰めますが、
梶原景時は、頼家に一切弁明せず、一族ともども相模国一宮の所領(梶原景時館)に引き上げてしまいます。

梶原景時は、幕府での居場所を失ったと感じたのか、一言も陳述しなかった梶原景時は罪を認めたことになったのです。
梶原景時の敗訴が確定し、鎌倉追放が申し渡されます。

1200年(正治二年)1月19日、梶原景時は一族らと相模を立ち、西国を目指しました。
しかし、駿河国清見関(静岡市清水区)近くで相模の地元武士襲われ、激しい合戦の末、梶原景時を含む一族のほぼ全てが討たれてしまいました。

梶原景時が頼家のもり役という立場を背景に、幕府内で相当の権勢を有したことから、多くの御家人が将軍・頼家と梶原景時に反発したというのが事件の真相のようです。

頼家もまた、すでに御家人から見放されていたようです。

阿野全成

1202年(建仁2年)7月22日、頼家、従二位に叙され、「征夷大将軍」に宣下されます。

1203年(建仁3年)5月、頼家は、阿野全成(あの ぜんじょう)を謀反人の咎で逮捕、殺害します。
阿野全成は、頼家の弟である千幡(のちの源実朝(さねとも))の乳母・阿波局(おば・北条政子の妹)の夫で叔父(頼朝の異母弟)です。

その阿野全成は、実朝を擁する妻・阿波局の父であるの時政及び妻の兄の義時と結び、頼家一派と対立するようになっていたのです。

さらに阿波局を逮捕しようとしたのですが、阿波局の姉である政子が引き渡しを拒否しました。

比企能員の変

比企氏は、将軍・頼家の妻・若狭局の実家にあたります。
頼家は13人の合議制ができる前から、将軍としての実権を奪われつつあったので、母・政子の北条氏より、比企氏に接近していました。
そして、若狭局が男子(嫡子・一幡)を産んだことで、比企氏が次期将軍の後ろ盾になる可能性も出てきたのです。

時政と政子は比企氏の力が強大になる前に、手を打つことにしたの「比企能員の変」ということです。

1203年(建仁3年)7月、頼家が病に倒れると、その家督相続をめぐり問題が表面化します。

1203年(建仁3年)9月2日に、時政は、頼家の妻の父・比企能員を自邸に呼び出して謀殺します。
頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼしました。

頼家は将軍職(鎌倉殿)を剥奪され、伊豆修善寺へ追放、幽閉されたました。

義時は、この比企能員の変の直後に、比企朝宗の娘である正室・姫の前と離別しています。

鎌倉幕府3代将軍・源実朝

時政、政子らは朝廷に、頼家は死去したという虚偽の報告を行います。
そして、頼家の弟で、阿波局が乳母を務めた12歳の源実朝を元服させて、鎌倉幕府3代将軍(第3代鎌倉殿)に擁立します。

北条時政が初代執権

1203年(建仁3年)10月9日には、時政は、大江広元と並んで政所別当に就任し、幕府の実権を握りました。

時政がこの年1203年(建仁3年)に、初代執権に就いたとされるのは、こうした政治的状況を示すものと考えられています。

頼家死去

『愚管抄』によると、11月になって襲撃から逃げ延びていた頼家の嫡子・一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺されたとあります。

1204年(元久元年)3月6日、義時は従五位下、相模守(さがみのかみ)に任じられました。
義時も北条氏の一員として有力御家人排除には協力していたようです。

そして、
1204年(元久元年)7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去します。
時政の手兵によって殺害されたのです。
享年23歳(満21歳)。

時政の嫡男・北条政範が死去

1204年(元久元年)11月27日、時政の嫡男・北条政範(ほうじょう まさのり)が、畠山重保(はたけやま しげやす)や平賀朝雅(ひらが ともまさ)といっしょにいった京で病にかかり、16歳で急死してしまいます。

北条政範の父は時政、母は時政の後妻で正室の牧の方です。

時政の嫡男は異母兄の義時ではなく、貴族出身である正室・牧の方を母とする北条政範であったと考えられ、北条政範の死は、続く畠山重忠の乱、牧氏事件のきっかけとなったと思われます。

畠山重忠の乱

北条氏による有力御家人排除は、続きます。

畠山重忠(はたけやま しげただ)は、頼朝追討軍と頼朝軍が最初に戦った石橋山の戦いで、当初は京に滞在していた父の代わりに平氏軍として出陣しています。
そして、頼朝に味方した三浦氏の長、三浦義明(みうらよしあき)を討ちとります。
その後、頼朝が体制を立て直し、鎌倉を目指すときには、今度は、関東武士として頼朝の軍勢に加わったのです。
そして、源平の合戦では多くの功績をあげ、頼朝の厚い信頼を受け、
鎌倉幕府の有力な御家人の一人となっていました。

畠山重忠の正室は時政の前妻です。

また、平賀朝雅(ひらが ともまさ)は、鎌倉幕府において御家人筆頭の地位にありました。
源氏門葉(血縁者)として頼朝に重用された平賀義信の次男です。
平賀朝雅は、比企能員の変では比企能員の追討に加わり、その功により、京都守護となるなど時政・牧の方にとって信用できる存在だったようです。

1204年(元久元年)11月、畠山重忠と時政の前妻の娘との子・畠山重保(はたけやま しげやす)が、時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅(ひらが ともまさ)と京での酒席で争うと、牧の方は時政に畠山重忠を討つよう求めます。

1205年(元久2年)6月、時政は、娘婿である稲毛重成(いなげ しげなり)が、まだ若い将軍・実朝に畠山重忠の謀反を訴え、畠山重忠の討伐が決定しました。

『吾妻鏡』によると義時は、忠実で皆からの信望も厚く、正直な畠山重忠が謀反を起こす訳がないと反対の意向を示したのですが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したといいます。

6月22日早朝、謀反人が由比ヶ浜に集結しているといううその報告を受けた畠山重保は、少数の手勢を連れて由比ヶ浜に駆けつけます。
そして、時政の命を受けた三浦義村によって討たれるのです。

一方、畠山重忠は、稲毛重成のこれも虚偽報告を受けて6月19日に菅谷館(すがややかた)(埼玉県比企郡嵐山町)を出発し、鎌倉へと向う途中でした。

畠山重忠が鎌倉へ向かっているとの一報に、義時らが鎌倉を出発します。
正午頃、武蔵国二俣川で討伐軍と畠山軍が激突するのです。(二俣川の戦い)
激戦が繰り広げられたが、畠山重忠は愛甲三郎季隆(あいきょう すえたか)の矢を受けて最期を遂げます。

畠山重忠軍を破った義時は、討伐軍が大軍(数万騎とも)であったのに対し、重忠軍がたった150騎余りだったことで、畠山謀叛が父・時政の虚言であったことを確認します。

そこで義時は、事件に関係した御家人を誅殺します。
三浦義村が、畠山重忠謀殺に荷担したとして鎌倉にいた畠山重忠の義弟の榛谷重朝父子を討ちます。
さらに畠山重忠謀反を訴えた稲毛重成も殺害したのです(6月23日)。

そして、義時は、父・時政の動向を注視することにしたのでした。

牧氏事件~父・時政を失脚へ追い込み

畠山重忠の乱、続く牧氏事件で義時と時政父子は対立するようになりました。

牧の方は、夫・時政と共謀して、将軍・実朝を廃して(暗殺計画とも)、娘婿・平賀朝雅を新たな将軍(鎌倉殿)に擁立し、政権を独占しようと計画しました。

これを知った先妻の子である義時と北条政子は、あまりにも強硬な策だと、反感を抱き、結城朝光(ゆうき ともみつ)、三浦義村(みうら よしむら)、長沼宗政(ながぬま むねまさ)らを派遣して、時政の屋敷にいた実朝を保護して、義時の屋敷に迎え入れます。

閏7月20日、御家人もいままでの時政のやり方を快く思わなかったため、多くが義時に味方し、北条時政は失脚します。(牧氏事件)

時政は、その翌日には、出家し、鎌倉から追放され伊豆・北条の旧領の伊豆で幽閉されています。

京都守護を兼ねていた平賀朝雅は8月2日に京都で、幕府の実権を握った義時の命をうけた山内首藤通基(やまうちすどうみちもと)によって殺害されました。

これら一連の事件の裏には、北条本家の後継者・北条政範の急死があり、政範亡き後、娘婿・平賀朝雅を将軍に立てようとする(時政というよりも)権力欲の強い牧の方と、先妻の子である義時・政子らの確執があったのではないでしょうか。

時政は、そのまま伊豆で1215年に死去しました。
牧の方は、その後、京都に嫁いだ娘を頼って上洛し、京都にて余生を過ごしています。

1205年(元久2年)に、比企の乱直後に比企朝宗の娘である正室・姫の前と離別した後に義時の継室として迎えた伊賀の方に五男・北条政村が生まれています。

第2代執権・北条義時

1205年(元久2年)閏7月、義時は、父に代わって政所別当の地位に就き、政子と義時が将軍・実朝を庇護し、他の御家人が仕える体制になります。

義時は常に政子と実朝を表面に立てながらも、政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛(あだち かげもり)らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握っていきました。

武蔵国は有力者の畠山重忠・平賀朝雅の排除によって、義時が信頼する弟の北条時房が同国の守護・国司となります。

父・時政は性急に権力を独占しようとし、他の御家人らから多くの反発を招いたのに対し、義時は柔軟な姿勢を示し、時政一人の署名による下知状という文書形式は一時姿を消します。
また、御家人たちの要望に応えた「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示するのでした。

時政失脚直後の8月、時政の娘婿の下野国の宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)に謀反の疑いありとして、義時は、守護の小山朝政(おやま ともまさ)に追討を命じ、宇都宮頼綱は無実であるとして出家します。

1209年(承元3年)11月には、義時は、職務怠慢をついて守護の終身制をやめて定期交代制にすることによって、守護だった有力御家人ら他氏の力を削ごうとします。
これは千葉氏や三浦氏や小山氏など御家人らの大反対にあい、実現しませんでした。

しかし、義時は、北条執権体制の障害となる有力御家人に対する抑圧策を進め、次第に独裁的になっていき、他の御家人たちにとっては大きな脅威となっていったのです。

この頃から義時の地位は執権と呼ばれるようになり、執権政治の基礎を築いていきます。

1212年5月、姫の前が産んだ次男・北条朝時(ほうじょう ともとき)が、将軍・実朝の怒りをかったため、義時は朝時を駿河に蟄居させ、将軍家や北条政子に配慮を示しています。

和田合戦

幕府内における北条氏の勢力の確立をねらう義時の動きに対し、御家人たちも警戒を強める中、幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛(よしもり)が狙われます。

和田義盛は、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などでは北条氏に協力的でした。

1213年(建保1)2月、頼家の遺児千寿を擁して大将軍となし、義時を打倒しようとする泉親衡(いずみちかひら)という御家人の謀叛が露見します。(泉親衡の乱)

この陰謀に和田義盛の子の和田義直(よしなお)、和田義重(よししげ)、甥の和田胤長(たねなが)の関与が明らかにされます。
和田義盛は、将軍・実朝に子息や甥の赦免を願い出ますが、子息は許されたものの、甥の和田胤長は許されませんでした。

そして、助命嘆願のため将軍・御所に集まっていた和田一族90人が居並ぶ前で和田胤長は縄をかけられ引き立てられます。
和田胤長の屋敷は罪人の屋敷として一族に下げ渡されることが慣習であるため一旦は和田義盛が拝領することになっていましたが、義時の反対にあい、手柄のあった別の御家人に引き渡されることになったのです。

度重なる屈辱に対し、いよいよ和田義盛も我慢ができなくなってきます。
挑発とも取れるような義時の行動に対し、和田義盛は密かに挙兵を決意します。

やがて、義時の仕打ちなのか和田義盛の動向がそうさせたのか、うわさが飛び交うようになり、将軍・実朝は和田義盛に使者をおくります。
4月27日のことです。

使者に対して、和田義盛は
「上(将軍・実朝)には全く恨みはございません。北条義時の身勝手極まりない無礼な行動について仔細を訊ねるべく出向こうとしているだけです」と答えます。
和田義盛はもちろん、実朝に逆らう気は毛頭ありませんでした。

和田義盛は、本家筋にあたり、従兄弟でもある三浦義村に事の次第と挙兵の意思を伝えました。
しかし、三浦義村は、和田義盛の挙兵を義時にリークしてしまうのです。
そのため、和田義盛が鎌倉で挙兵したとき、義時方には援軍が続々と到着しています。

1213年(建保1)5月2日から3日にかけて、鎌倉を舞台に和田義盛と義時によって合戦が行われます。
これが、「和田合戦」です。

和田義盛軍は果敢に戦いましたが、徐々に追い詰められ、和田義盛軍は鎌倉の南にある由比ヶ浜まで退き、そこで敗れ去ります。

義時は、将軍・実朝を正面に立てたこの戦いで、和田義盛が務めていた侍所の別当の地位を得ると、将軍の後見としてますます勢力は拡大します。

幕府の最も枢要な職である政治の中枢である政所と、警察と御家人を管理する侍所の別当を独占することになり、幕府指導者としての地位が盤石となりました。
事実上、執権は鎌倉幕府の最高職となりました。

この時、駿河で謹慎していた次男・北条朝時は和田合戦に加わっており、勇猛な朝比奈義秀と果敢に戦い、復帰を許されました。

乱の3年後の1216年(建保4年)4年には、従四位下に叙し、
翌年5月に右京大夫、12月に陸奥(むつ)守を兼ねて父の官位を超えます。

実朝暗殺

1219年(承久元年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、源実朝の右大臣任官の祝賀(拝賀)が行われました。
この帰りの境内で、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の子である公暁(くぎょう)によって、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が暗殺されます。
源氏の正統が断絶したのです。

この時、義時と間違えられた源仲章も殺害されました。

予定では、義時がその日の拝賀式で、源実朝の脇で御剣奉持(太刀を持つ)の役をするはずでしたが、吾妻鏡によると、当日急に体調不良を訴えて源仲章に交代してもらっていたと言います。
結果として、義時は、自邸で休んでいたため、難を逃れたのです。

暗殺事件後の対応などから、意のままになることを拒み始めた実朝の暗殺は義時が裏で操ったという説や、
将軍親裁を強める実朝に対する義時・三浦義村ら鎌倉御家人の共謀という説もありますが、
北条氏に対抗する三浦義村、または幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説もあり、
またそれらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解もあって、
真相はほんとうのところわかりません。

源氏の血統を断つ

実朝の死によって源氏の直系が絶えてしまったのです。
源氏の正統が絶えた事による幕府内での動揺は大きく、さらに、残っていた源氏一族や血筋の近い人々が、将軍の座を狙って策動し始めました。

義時は、源家の血統を断ちます。

義時は、将軍の座を望んで挙兵した阿野時元(あの ときもと)を討ちます。
阿野時元は、源頼朝の異母弟である阿野全成の四男で源氏の一族でした。
頼家や実朝のイトコですから、当然将軍になることは不可能ではありません。

また、京都で出家していた禅暁は、実朝暗殺の実行犯である頼家の遺子・公暁と異母弟だったことから関与を疑われて誅殺されてしまうのです。

後継将軍

事件の前年から、子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇の雅成親王(六条宮)(まさなりしんのう)を将軍として東下させる事が検討されていました。
そして、実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として皇族である親王の鎌倉下向を朝廷に要請したのですが、後鳥羽上皇はこれを拒否します。
義時の弟・北条時房を一千騎を率いて上京させて交渉に当たらせましたが、不調に終わります。

幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、頼朝の遠い縁戚である摂関家(公家の家格の頂点に立った5家)の九条道家(くじょうみちいえ)の子・三寅 (のちの将軍・藤原頼経(よりつね))を鎌倉幕府第4代将軍として迎え入れることになりました。

三寅は頼朝の異母妹の血を引いているので、「源氏の血を引く」一応の正当性もあったのです。

尼将軍と執権政治

もっとも、三寅は当時生後1年余の幼児で、直ちに征夷大将軍に任じられる状況にはなかったのです(実際の将軍補任は7年後です)。

そのため、北条政子が「尼将軍」として、三寅の後見を務め、「鎌倉殿」の地位を代行しました。
その政子を、義時が補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立したのです。
義時は、「尼将軍」政子の下で実権を握る形で幕政を掌握したのです。

ちなみに、北条氏は桓武平氏を称していたので、源氏一族を滅ぼして、平氏の世の中に逆戻りしたとも言えます。

後鳥羽上皇との対立

頼朝の死後、鎌倉幕府に対して強硬な姿勢だった後鳥羽上皇ですが、実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題で、鎌倉幕府との対立が深まります。

1219年、内裏守護・源頼茂(みなもと の よりもち)が、西面武士(さいめんのぶし)に襲撃されて討死する事件が起こります。
西面武士とは、上皇に仕え、身辺の警衛、奉仕などにあたった武家集団です。

源頼茂が将軍職に就くことを企てたとして襲撃されたということのようですが、後鳥羽上皇の倒幕計画を察知されたためとの説もあります。

1220年(承久2年)2月、執権・義時は、義兄の伊賀光季(いが みつすえ)を京都守護として派遣し、また、娘婿・大江親広(おおえ の ちかひろ)も京都守護として上洛させ、治安維持と朝廷の監視をさせています。

承久の乱~後鳥羽上皇 対 北条義時

源頼朝が鎌倉幕府を創始して以降、東国を支配する幕府と西国を支配する朝廷の二頭政治が続いていたという状況がありました。

そしてついに、後鳥羽上皇が動きます。
後鳥羽上皇が皇権回復するため、鎌倉幕府執権の北条義時に対して挙兵するのです。、

1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇は平安京にて「流鏑馬揃え(やぶさめぞろえ)」を行うとして諸国の兵を集めました。
北面武士・西面武士、近国の武士、大番役の在京の武士、尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・三浦胤義など1700余騎が集まります。
倒幕の兵を挙げのです。

幕府の内紛をみて後鳥羽上皇のもとで倒幕計画が進められ、軍備を拡張していたのです。

京都守護の大江親広も加わりましたが、同じ京都守護の伊賀光季は拒んだため、伊賀光季の屋敷が襲撃されて討死してしまいます。

そして、15日、後鳥羽上皇は全国に対して、「北条義時追討の宣旨」を発し、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命が出されたのです。

京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態であり、義時は生涯最大の難局に直面する事になったのです。

これが「承久の乱」の始まりです。

この後鳥羽上皇・朝廷の挙兵が鎌倉に伝わります。
御家人らに、相手は「官軍」、そして幕府側は「朝敵」になったことに動揺が広がります。
ここで登場したのが、源頼朝の正妻・北条政子でした。
動揺する御家人らに対し、尼将軍・政子が頼朝以来の恩顧を訴える声明を出します。
「頼朝公の恩義はどうなりました! 忘れたとは言わせませんよ!」

三浦義村以下、有力御家人のほとんどが幕府への忠誠を誓い、幕府側は一致団結して反撃態勢を整えることができたのです。

幕府首脳(北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛ら)は軍議を開きました。
軍議では慎重論も出る中、大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」という意見で、幕府軍は京へ出撃することが決定されます。
北条政子も承認するのでした。

そして、義時は長男・北条泰時を総大将として東海道から京都へ向けて軍勢を送ります。

また別ルートで、次男・北条朝時と弟・北条時房を大将軍として越後から北陸を経由して京へ上らせるのです。

東山道(中山道)からは武田信光(たけだ のぶみつ)が進んでいきます。
武田信光は、北条政子の演説に心動かされ、鎌倉が勝つのであれば鎌倉につくとして味方しました。
進軍する幕府軍は、幕府首脳部の積極作戦が功を奏し、東国武士たちが続々と動員令に応じて、総勢19万の大軍となって都へ攻め上りました。

そして、5月21日に鎌倉を発した幕府軍は木曽川、宇治川の京都防衛線を突破して、6月15日には京都を制圧してしまいます。
義時追討の宣旨発布からわずか一ヶ月後の幕府軍の完勝であったのです。

敗北した後鳥羽上皇は、倒幕計画は自分の考えではなく近臣が勝手に起こしたものであると弁明しましたが、
鎌倉幕府はこの騒乱の首謀者である後鳥羽上皇らに対して断固たる極めて厳しい処分をとります。
後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、隠岐島へ、また、順徳上皇は佐渡島へ配流されました。
倒幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されます(後に阿波国へ移される)。
後鳥羽上皇の皇子の雅成親王、頼仁親王もそれぞれ但馬国、備前国へ配流となりました。

そして、鎌倉幕府に近く親幕派で、後鳥羽上皇に拘束されていた公家の西園寺公経が内大臣となり、幕府の意向を受けて朝廷の再編成が行われます。

在位70日余りの仲恭天皇(ちゅうきょう)は廃されて、新たに後堀河天皇(ごほりかわ)が立てられました。

朝廷は幕府に完全に従属し、鎌倉と京都の二元政治が終わり、武家政権が確立したのです。

北条泰時・北条時房は京の平清盛邸の跡地である六波羅(ろくはら)に滞在して戦後処理に当たります。
そして、京都守護に代り新たに皇室・公家の監視を務める六波羅探題を設置することになったのです。

西国で朝廷に加担した公家や武士らの多くの所領(3000か所とも)は没収され、戦功があった御家人に恩賞として与えられました。
これは、執権・義時の北条氏と御家人らとの信頼関係を強固なものにしました。
そして、これにより、東国の多くの御家人が西国に移り住むことになり、地頭職に任じられて、幕府の支配が全国に広く及ぶようになったのです。
鎌倉幕府は全国的政権へと発展したといえます。

この承久の乱の勝利で、義時と幕府が朝廷に優位であることが確定し、さらには、義時が、幕府の最高権力者としての地位を確固たるものにしたといえます。

義時の最期

1223年、承久の乱の翌年、義時は陸奥守と右京権大夫を返上して無官となりました。

そして、

1224年(元仁元年)6月13日、義時が急死します。享年62歳でした。

義時の死去は、体制が固まったばかりの幕府を再び緊張させましたが、政子が義時の嫡男・北条泰時を後継者に指名し、以後、執権政治が本格的に展開することになりました。

義時の死は、『吾妻鏡』によれば衝心脚気(脚気の進行による心不全)のためとされていますが、幕府最高指導者の急死であり、これまで、権力闘争のなかで暗躍してきたことを考えると、憶測を呼び、後妻の伊賀の方に毒殺された(『明月記』)とか、近習の小侍に刺し殺された(『保暦間記』)とかともいわれています。
これらも真相はわかりません。

 

まとめ

北条義時は、実父の時政まで追放し、自らが執権となり、源氏将軍を滅ぼし、傀儡の将軍をたてながら幕府の最高権力を持ち、さらには、上皇を島流しにし、天皇を交代させるなどのため、逆臣、不忠の臣、陰険な策謀家と言われることが多い人物です。

しかし、義時の人生を追うと、義時に降りかかるトラブルに振り回されながらも自分の身と一族を守ろうとした結果の人生であったのではないでしょうか?

この義時に物語が2022年の大河ドラマでどう描かれるにか楽しみです。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

 

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